2018年12月21日金曜日

関殿屋敷跡@東御市和深井

「東深井区誌」に「関殿屋敷」があり、「昭和四十六年(1971)タタラ堂の関実雄氏が祖先先住の地として、深井池の北に碑を建てたが、そこよりやや北東100mほどの地が関殿屋敷と伝えられている処である」とある。

「深井池ができるより前、寛保の大洪水よりもっと前、このあたりは大雨の際に、烏帽子水系の水が栗林から瀬沢川の次郎淵の方向に向かって大荒れに荒れたところと伝えられ、この地に水害が多く安住に堪えないと屋敷を払って田沢へ移住したと古老は伝え、それが関氏であるという。」(「東深井区誌」)

寛保の大洪水より前とあるが、江戸時代中の事象をいっているのだろう。
殿屋敷といっているので、それなりの身分の者が在ったものと思われる。
現状では「関殿屋敷」がどういった謂れのもので、どういった人物がいたものか分からないが、地域に伝承が残る以上は残すことが大切で後の研究でもうすこし何か分かればとおもう。

上の写真の道に添ったせんげが吉田堰から下る中堰で、橋が松代古道。道の右奥に「関殿屋敷・祖先先住の地」の石碑と五輪が建つ。
現地の証言をとっていないので正確にはわからないが、吉田せんげと古い松代道の交わる辺りが北東100m付近になり、この北の畑地辺りが該当地ではと推測する。

その北側の畑地方面。
奥の竹林があやしいが、全宗院のある方向であり、古道沿いであることからこの周辺のどこかが「関殿屋敷跡」であると思われる。

東側の道から見た所。

 奥の竹林付近。


「関殿屋敷・祖先先住の地」石碑の周辺は「さくれん林」というところで、明治時代はあたり一帯が大きなくぬぎ林であったという。元和七年(1621)と承応三年(1654)の古文書に組頭として出てくる作右衛門という人の林で、「さくえもん林」ではと「東深井区誌」にある。
この場所から西北下方に流れる細いせんげが「次郎淵堰」で付近は「次郎淵」地籍といい、明治頃までは大きな石が道に横たわり、横石という俗称の起源であったという。
これらの名と関殿屋敷との関係はわからない。

大きな石ではないが、字次郎淵にある石。
かつての「さくれん林」と「次郎淵堰」。

旧松代街道。

「中堰」

次郎淵地籍の北西には「竹ノ鼻」の字地があり、その南は「西深井居館(正村屋敷)」がある。
南方には「大御堂跡」や「深井氏居館跡」があり、東の栗林には「狐屋敷」というところがあるという。
吉田の全宗院は、武田信玄の第2子竜宝が海野家を相続してここを領し、一庵を建て「潔泉院」としたのを起源とする。

鈴鹿郡関発祥とされ北条早雲の出た伊勢平氏の関氏や、常陸国の藤原北家秀郷流結城氏の関氏との関係は不明だが、上田市や東御市に関氏は多い。
近隣では北信の島津氏の与力に関氏が見え、真田氏の史料にも家臣に関氏が在ったことが伺える。
江戸末期の力士雷電は、大石村の関半右衛門家に生まれたというから関姓であろう。
深井地区は中世には旧族深井氏の所領で、海野氏の執事であったといい、田沢も海野氏の支配するところである。

参考に付近図



2018、12月初訪



2018年12月14日金曜日

横道の館@上田市真田傍陽横道


下横道区民館の南側、県道傍陽菅平線と古道に挟まれた辺りに在ったという。
「信濃の山城と館」に「横道の館(堀の内)」とされているので、この場所は「堀の内」と言われているのかもしれない。
史料は無く、伝承等も不明というが、位置的に真田氏に関わる者の館跡とみられるという。
真田氏は、古代の山家郷一帯に牧場経営で力を持った土豪とみられており、その初期の本拠地が傍陽地域で洗馬城の麓の萩の館(堀の内)ではなかったかという大家の説がある。

真田氏の祖が古代の山家郷一帯で牧場経営をし、力を持って土豪化したであろうことはあり得る事と思う。その初期の本拠地が傍陽地域で洗馬城の麓の萩の館であるという根拠はよく分からないが、付近に牧にかかわる痕跡が多いからだろうか。
本原の出早雄神社は「日本三代実録」に、貞観2年(860)に馬背神・駒弓神とともに位をけられたなどの記事があり、相当の実力者の存在が在ったことを示すが、それは真田氏では云々とは同じ一志茂樹氏の説であったと記憶している。
さて、真田氏とは一体どんな出自をもった氏族なのだろう。
この地域では堀内姓が圧倒的に多く歴史の古さを物語るが、横道の館も堀内氏に関わる可能性があるかも知れない。

また付近の館として、萩の館(堀の内)の他には三島平に「伝・カクジ屋敷跡」があるらしいがそれもよく分からない。

十九夜講と番屋跡
下横道区民館北の五差路には、江戸時代に番屋があり、十九夜講などの石塔や常夜燈などが集中し、人の集まる辻であったことが伺えるが、北へに道は若穂保科へと通じ「保科道」とも呼ばれ、東に向かった道は穴沢・三島の集落を通り菅平ばかりか大日向にでる山道もあるという。(横道の十九夜講参照)

常夜燈と古道
この古道沿いに一辺50m内外の屋敷があり、簡単な防備が施されていたように見受けられると「信濃の山城と館」にある。

ここが古道沿いにある一辺50m内外の屋敷と思われる。
一枚目の写真右手の竹の塚は土塁跡のようにもみえる。
また、二枚目写真奥の小山は物見として利用されたのではという。

県道側からだと何やらさっぱりわからない。

県道から見た横道の館推定地側面。

傍らに学校跡とある石碑があった。
この辺りの地割は古い様相をみせているが、「信濃の山城と館」ではここより北側を推定地としている。

ぐっと引いてみる。
この辺りの民家は推定地外らしい。

さらに引いてみる。
中央に遠く見える集落は「弾正塚宝篋印塔と一本松」がある穴沢で、右の山間が三島平方面で菅平や大日向への山道がある。
そうすると、真田氏は上州街道を中心に語られがちだが、この地域が太古の牧場云々はともかくとして如何に重要かがわかる。少なくとも乱世にあってはこの地を抑えずして真田の里の安全な経営は成り立たないといえる。

さらに「保科道」方面。

トップ画と同じよなアングルだが、物見山(推測だが)との位置関係がわかる。

ゾクッとする段落である。
一辺50m内外の屋敷前の畑から更にとび出した畑地で、もはや郭を想像せずにいられない。
古道の東側には堰が呼び込まれており、南側は濠であった可能性がある。
そうなら土塁周りはと思うのだが、古道より屋敷推定地内側の畑の方が若干低く溜池まであるのでよく分からない。

それでも脇にはせんげも走っているので、古道に添って堀の役割のものくらいはあったかもしれない。

土塁近く古道の脇に道祖神があった。
近所の子供のしわざであろうか、それとも何かのまじないか。並べられた小石や貝殻らしきものが印象的だった。


横道の古道と土塁跡

2018、12月初訪



2018年12月13日木曜日

横道の十九夜講@上田市真田町傍陽横道

横道三区(上横道区・中横道区・下横道区)が合同で行っている十九夜講がある。ムラの辻にある如意輪観音を祀る講で、この像を十九夜様とも呼んでいる。各区の16名の主婦が当番にあたる。祭日は3月19日である。この日の当番は、十九夜様へ幟を立てたり、公民館に祭壇を作り掛け軸をかけ、団子を作りお供えをしたり豆煎り持ち寄った煮物などもお供えする。(真田三代 傍陽コースより)

横道三区が合同で行っている講で、ムラの辻にある十九夜様(如意輪観音(にょいりんかんのん))をまつり、安産を祈願して行われる。祭日は3月19日で、この日に当番は祠に幟(のぼり)を立て、公民館の正面に祭壇を作り、掛け軸をかけて、仏像を飾る。だんごを作りお供えし、豆煎りや持ち寄った煮物などもお供えする。十九夜様へ参拝した後、お念仏を行い、その後は、各自ごちそうを持ち寄ったものや、だんごをお参りに来た人に分けたり、自分たちも食べたり語り合ったりする。なお、昭和初期まで二十三夜講があったという。(「上田市文化財マップ」

十九夜講は別名を子安講ともいい、安産や子育てを祈願する女性の集まりで、毎月19日の夜に集まり、祈願していたことから十九夜講となったものらしい。
信仰という側面と、女性たちの息抜きの場という側面があり、こういった月待ち講は、江戸時代の文化・文政のころ全国的に流行したという。

また写真中央の勢至菩薩の月待塔が二十三夜講の本尊だろう
現在は近くの公民館で行われているようだが、昔は近くに月待堂などがあったかもしれない。




「月待ち」は16世紀に京都の公家社会で二十三夜待ちが行われていたものが、やがて民間信仰になったとされる。
十九夜講も月待ち信仰を起源の一つとしている民俗信仰で、神道では月読命。仏教では如意輪観音が本尊として祀られるものという。
如意輪観音は、十九夜、二十一夜、二十二夜など「月待ち」信仰の本尊で、そのほとんどは女人講という。
古より月の満ち欠けが生命力と深いかかわりをもつと信じられてきたものが、宗教とつながり安産や子育てを祈願する信仰となったのかもしれない。


他に石碑と石塔があった。
石碑。読めないが筆塚のようだ。
手前の石塔は不明だが石仏か。



道を挟んだ北に「番屋跡」の石碑。
そして東屋。
幕末期の絵地図には、ここに番屋と記されているという。近くの「横道の館跡」と関係はあるのだろうか。

道路の東側には大きな常夜灯がみえる。

常夜灯塔身には「奉燈石尊前天保六末仲秋」と彫られているという。
「石尊」というのは天狗岩に祀られている神様で、そのはるか前方に造られたのが、この常夜燈である。かつて上ノ海戸(上の街道)からの川がしばしば洪水を起こし、それを防ぐ目的もあって、この様に大きなものを築いたと伝わる。
石尊は元々は神奈川県伊勢原市大山の阿夫利神社の神様、大山祇神で、農業の神・雨乞いの神といわれている。昭和二十年代の終わり頃(一九五五頃)までは青年団を中心に石尊の祭りが行われており、法螺貝を鳴らし御神刀で邪気を払っ家々からお寒銭やお米などを集めていたという。(「日本ダボス」(平成19年12月22日発行)堀内泰氏寄稿「ふるさと、原風景と私」より引用)

また同氏は、辻の北の道は若穂保科へと通じ「保科道」とも呼ばれ、東に向かった道は穴沢・三島の集落を通り菅平ばかりか大日向にでる山道もある。
縦の道である保科道に対して横に開かれた道、これが 「横道」という地名のおこりと推測されるとしている。

常夜燈脇の細い道は旧道で、この辻に番屋、月待塔や石塔が集まっており、この付近の中心的な場所であったと想像できる。

中央の尖った山頂付近が「天狗岩」らしい。

追記
「天狗岩」の東の尾根には三峰社があり、三体のお犬様が祀られているといい、他にも木曽の御嶽も付近に勧請されているということである。


2018、12月再訪
2019,1月三峰社のくだりを追記

2018年12月12日水曜日

宮原神社@上田市真田町傍陽宮原


勧請年暦は不明。社は東西26m、南北20mの広さがある。真田家や仙石家から除地されたとの記録が残っていることから代々この地を治めていた領主から大事にされていたことが推測される。(真田三代 傍陽コースより)

鳥居は少し離れた集落内にある。
奥の森が宮原神社。
向かい合う道祖神。
左右それぞれの結界の間に鳥居とは何の暗示か。


拝殿。
梶の葉紋が至る所にみられる。

祭神は建御名方神と八坂刀売神
諏訪系の神社である。

鎌倉時代建久元年(1190)創祀、室町時代末期本殿建立。永禄二年(1559)真田安房守昌幸上田在城の砌曲尾郷高辻の内四貫八百文除地社附す。嘉永四年(1851)四月吉田家より宮原神社社号許諾あり、昭和五九年堀内猪之助翁が社殿を再建寄贈された。

1300年代のものという御神木という。
木の根の股。こういう所に付き物のあれは無かった。

本殿裏の石祠群。
本殿裏の社。境内社のどれかだろう。

稲荷神社。

本殿を後部から。

裏にいろいろ書いてあったが、土手に迫っていてきちんと読めなかった。

境内から見る横尾城(尾引城)の裏側。


宮原神社は横尾城の北側、横尾集落の裏手になる。南東には洗馬城があり、西は洗馬川を挟んで根古屋城があり、宮原神社はその中間辺りに位置する。

南に横尾城。
北西には洗馬城。
西には根古屋城(曲尾城)。

鳥居を挟んで左右が向かい合う道祖神があったが、それぞれの結界は所領の境界を意味しているとは考えられないか。
根古屋城と洗馬城は曲尾氏に関する城と言われており、横尾城には横尾氏が拠ったとされているが、指呼の距離に在ってその境界は曖昧であることを以前から疑問に思っていた。
宮原集落の歴史を知らないで言うのもなんだが、曲尾氏と横尾氏の所領の境界がこれではないかと思ったわけである。

曲尾の交差点付近から見た宮原集落。
中央の小山の右側が宮原神社の場所だが、周囲は見通しのよい緩い斜面であり、この小山が非常によく目立つ。

古墳か何かであろうと思われるが、書籍等漁っていないので断言はできない。
宮原神社が頂上でなく、東斜面の麓に祀られていることは何か意味がありそうである。

宮原神社の裏手、北東側から見たところ。
さらに北から見たところ。

東側側面。

西側側面。
小山の北方はこんな感じ。

南西側。

南先端付近。
墓地となっている。


古墳、屋敷地跡、砦跡、等考えられるが、掘割や堀の跡など素人にはわからない。
以下参考までに。
境内南側は一段低く、古い鳥居の石柱が残っている。
稲荷社鳥居前の若干の窪地と段差。
稲荷社鳥居前の広い平地は畑跡であったろうが荒れている。
境内裏はわずかに数段になっているが畑地の跡だろうか。

森を北に抜けると畑地で最頂部付近である。
最頂部付近で唯一の石塔か。ただの自然石か。


最頂部付近からの眺め。
結局遺構らしきものは見付からなかった。発掘調査するわけにもいかないので後の研究で何か分かったら追記したい。
ここには何かある。



2018、12月再訪


足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...