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2019年11月25日月曜日

刈屋城❨三宅城❩@小諸市大字滋野甲

深沢川の西岸の崖縁上で、地元では城畑と呼んでいたらしい。
「滋野村誌」には、規模が東西三十間❨約53m❩、南北二十間❨約36m❩の小台地で、東西に石垣があり、北側には堀があったという。現在はおおよそ工場の駐車場に該当すると思われるが、石垣も堀も分からなくなっている。

往昔から小県方面と小諸方面をつなぐ要路があったと考えられ、交通の要衝であることから城塞が築かれたものとされる。
里伝では、刈谷城と呼び、滋野一族で祢津小次郎直家の後裔である三宅惣右衛門康貞が居住したという。
従って、刈谷城は祢津氏の属城で、400m北の「旦田城」も共に西側勢力に属するものとされる。

古い街道が深沢川対岸に通ずる交通の要所であるが、対岸の滝原には刈屋城に相対する城館が見当たらない。
深沢川を挟んだ対岸勢力が敵対勢力なら、なにかしらの施設が存在した可能性を考えるのが自然だと思われる。
おそらく、当初は対岸勢力を警戒する必要がなかったものが、ある時期に祢津氏側勢力が刈屋城や旦田城を深沢川岸に築いたもののように思われる。祢津氏の警戒する勢力は大井氏であろう。それまでの滝原の勢力は祢津氏と友好的な勢力、滋野一族が考えられそうである。


「滋野村誌」に天正十年❨1582❩徳川軍が佐久郡に入った時の仮の陣であるとあるが、事実と年代に齟齬があることから、「第一次上田攻め」の為に小諸付近に集結した徳川軍の家臣が陣城の一つとして利用した可能性のほうが強いようである。❨「小諸市誌」など❩



道路が堀の名残か。

東側に名残を感じられる。

西側に深沢に下道路があるが、ここに同じように古い道が通っていたとしたら、まさに最適の立地に刈谷城はあるといえようか。

深沢川の深い谷。




2019、11月初訪
2020、1月「古い街道が深沢川対岸に通ずる…」のくだり追記

旦田城@小諸市大字滋野甲一騎場

一騎場という字地も気になるところだが、そこに旦田城がある。
深沢川西岸、深沢の深い谷の崖縁になり、「滋野村誌」によると、城域はもっと広かったが、寛保二年❨1742❩「乾の満水」によって深沢川の側面が削られたものであろうという。
現地をみると、中心的な郭は西側台地よりずっと低い斜面中段の削平地で北側の民家のところ以外は薮化している。

「小諸市誌」では、小諸市諸の富士見城❨大室城❩を意識したもので、深沢川を堺にして、佐久・小諸と小県・滋野付近の西側勢力の備えであろうとしながら、領主も守将も明らかでなく、また旦田の意味も土地の名からのものか、城主の名からの呼称かもわからないとしている。
「信濃の山城と館」でも、城主城歴は不明ながら、立地からして、東向の城で、深沢を挟んで東方を見張るためのものであることが考えられ、南方400mにある「刈屋城❨三宅城❩」も同じで、滋野一族の三宅氏が居住したようで、祢津氏の係累に属するものであることがわかるとある。

不自然なのは、深沢川対岸の滝原に「旦田城」「刈屋城❨三宅城❩」に相対する城館が見当たらないことであるが、おそらく、当初は対岸勢力を警戒する必要がなかったものが、ある時期に祢津氏側勢力が刈屋城や旦田城を深沢川岸に築いたもののように思われる。
それまでの滝原の勢力は祢津氏と友好的な滋野一族の勢力が考えられ、後に祢津氏の警戒した勢力は大井氏であろうと推測する。
旦田城の対岸に相対する所には「塔の峯五輪塔群」があり、寺院の存在が考えられているが何かしらの手掛りにはなるまいか。




❨1❩の郭と北側の民家。
斜面中段の削平地で薮化している。

「信濃の山城と館」に、❨2❩は土塁状の平地とあるが、破壊が進んだのか道路より低い。

その西側の深沢堰は堀跡にも見えるが後世のものという。

写真を撮っている方向に楯状の小尾根があるが、旦田城にかかわるものか。





2019、11月初訪
2020、1月「塔の峯五輪塔群」のくだり追記

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...