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2018年12月31日月曜日

祢津支城@東御市滋野乙


新張に開けた扇状地の東側、緩やかな尾根の南端になる。 麓から見える鉄塔の建っている所が主郭であるらしい。

原口集落の北であり、原口山とも城平とも言われるらしいので、原口に祢津氏と関連のある者が居たことが考えられる。
西に滋野神社があり、更に先は祢津氏の本拠地となる。南西には別府集落、別府城があり祢津氏代官である別府氏がいた。更に南方には大石城や芝生田城と東漸寺といった、祢津氏に関わる施設があり、東の井子神社は滋野神社から分かれたというので祢津氏の所領であったろう。
小諸城は長享元年(1487)に大井光忠が築城した鍋蓋(なべぶた)城が始まりものといい、後に小諸地方は村上氏の領有ともなっているが、小諸、佐久地域との境界はおそらく深沢川であったと思われるので、祢津支城よりもっと東の深沢川西岸付近にも何かしら祢津氏の施設があった可能性はあるかもしれない。
ともかく南方向一帯に展望がよく、祢津氏所領の東側地域を見張るのに使われたものと思われる。

先端付近の登山口。

緩やかな登山道。
東側斜面には削平地があるが、城跡であるかは分からない。
ただ、その下は平らな畑で細い沢が流れるだけなので、何かしの防備があったであろう。

2の郭付近から南側を振り返る。
2郭と3郭の境に堀があるらしいが、上からだとよく分からない。
東側に少し降りるとそれらしき形跡。
で、右の石の付近が「信濃の山城と館」にある虎口であろうか。

石付近からの3の郭。

3の郭から見た2の郭(左)と主郭(鉄塔)。

2の郭から見た主郭(鉄塔)。

主郭は緩い傾斜地で、主郭の北側と西側には土塁が巻いている。

主郭の東側はいくらかの切崖になる。
主郭西側の土塁跡。

主郭北側の土塁跡。

北側の土塁は竪堀となって両側に落ちるが、東側は堀切を伴って下の畑まで落ちている。
東側の堀切と土塁を下から見る。
二枚目の写真はかなり下からのもの。

西側に落ちる竪堀。
二枚目の写真は西側から祢津支城を写したものだが、竪堀に見えるものがそれであると思われる。

北側から見た北の土塁と奥の主郭。
結構綺麗で東の竪堀土塁とともに最大の見所。

もう少し北にも堀切があるというが、ほとんど分からない。

その北にはせんげが通っていたが、すでに城跡外らしい。



祢津支城からの田中方面への眺め。

東の竪堀の先は畑地である。

東の畑地。穏やかな土地で、主郭が傾斜地であることから小屋掛けされたのはここではとも想像できる。

東の畑地から祢津支城を見上げる。

南に原口集落
中央の森は神社かと思ったが竹林と墓地、畑地だった。まとまった平地でもあり屋敷や寺屋の跡地かもしれない。

東隣の尾根は弁天山。
これも砦跡かと思ったが、こんな近距離に必要ないか。

西側麓にはせんげが通っている。
開墾の歴史は調査していないが、館などは堰の要所に築かれることが多く感じるし、堀の役目もあったかもしれない。

左隅の森付近が滋野神社。西方の滋野神社裏の山にも見張りの砦くらいは在りそうであるが未調査。


古代新張牧は望月牧に次ぐ規模で、実はここより北の奈良原一帯が中心地ともいわれている。
その経営者であったか管理者かであった祢津氏は祢津や新張一帯から湯の丸を越えた群馬側の田代方面までを領有したらしい。
新張地域は直轄地とされるので、祢津支城も直轄の城と思われるが築城時期は不明。
永享八年(1436)の、「芦田下野守征伐」で信濃守護小笠原政康に別府城と芝生田城を攻撃されたが、近くの大石城ともども記録にない。その時期に存在したのかも、どういった役割を果たしたものかも不明である。



ここでは関係ないが、近くには寺ノ浦石器時代住居跡がある。

2018、12月初訪




2018年6月12日火曜日

大石城@東御市滋野

「長野県町村誌」の「大石氏城跡」に「大石組人家の西路傍の田間にあり。東西二十間、南北三十間、四方石塁存し堀の形跡あり。少し高地にして城畑と称し北に外城の名あり。里老伝曰、大石太郎なる者住して祢津氏の為に滅ぶと、其伝詳ならず。長禄中(1457~59)祢津宮内少輔代官岡村四郎兵衛居住す。文正の頃(1466)岡村四郎左衛門時則あり。」とあり、「小県郡誌」ではさらに「…これら防備を施したる邸宅を城と呼びなしたる遺構にして居館の址にて城塞にはあらざるべし。」という。

これを「信濃の山城と館」では、開発領主である大石太郎は祢津氏によって滅ぼされ、以後祢津氏の支配地に組み込まれたものとする。

大石氏が住した時期だが、開発領主であるとすると鎌倉期は勿論平安期もあり得る。
しかし大石一帯は古く鞍掛といわれるところで、古代の新張牧に含まれると思われ、そもそもが牧経営にあたった大伴氏の流れをくむとされる祢津氏族の支配地であったと考えられる。領主権をもった在地領主として入ったとしても摩擦は避けられなかっろう。

祢津氏の初見は保元の乱(1156)だが、そのころから鎌倉期の間には既に一帯は祢津氏の支配地であったと思われるのだが、その間に大石氏も入殖しやがて祢津氏に追われたものか。
或は鎌倉幕府影響下で多少の所領の交錯の中で共存していたものが、長禄中(1457~59)祢津宮内少輔代官岡村四郎兵衛居住までの間、室町初期の混乱の中で大石氏は祢津氏に追われたのかもしれない。

かつて祢津大石郷にいた大石氏との関連はわからないが、信濃大石氏は信濃藤原氏の後裔で、信濃国佐久郡大石郷(南佐久郡佐久穂町八郡大石)を本貫地とし大石氏を名乗ったといわれ、勢力のあった室町期には関東管領上杉氏のもと、四宿老(長尾氏・大石氏・小幡氏・白倉氏)の一人に数えられ、代々武蔵国の守護代を務めたという。
このあたりはいずれもう少し調べたい。


『御符札之古書』から代官の支配地をみると、祢津田中(代官浦野氏)・小田中祢津(代官金屋氏・出沢氏(出浦氏か)・岡村氏)・大石(代官岡村氏)・桜井(代官桜井氏)・芝生田(代官芝生田氏)の五郷となる。
大石郷は、牧家・本大石・有津倉・金子・原を含めて現地名として大石が残り、これと重なった地域であろう。代官は岡村氏で小田中祢津の岡村氏と同一と思われる。(東部町誌より)

岡村氏は浦里の岡を本領とする氏族とみられている。
祢津氏代官岡村氏についてはいずれそちらで書きたい。



ほぼ中央の天神社が建つ積み石。古いものとは思えないが、元々は土塁なり何かしらの遺構が在った可能性はあろう。

天神社の南側周辺。

天神社の北側周辺。

北側から見た大石城全景。
左にある建物の辺りには井戸が残るという。
右手の田は大石城の西辺になるが、少し低くなり堀跡の可能性があるという。
民家の為詳細な確認はできなかった。

西側道路から見た大石城全景。
水田より少し高く、古いものかはわからないが石積や土塁状のものもみえる。

東に一区画離れた所を西沢川が流れている。
本来は東の堀の役目を果たしていたろうことは容易に想像できる。

西沢川対岸、本大石にある石塔郡。
手前は新しいものの様だが、奥の五輪塔などは古いものに思えるが関係性は不明。

大石城北側の民家が立派だったのでパシャリ。


ここを西に行った道に「慈眼視衆生観音堂」がある。その観音堂は大石区全体でまつっているという。



2018、6月初訪
2018、6月加筆

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...