ラベル 内山城 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 内山城 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2018年11月5日月曜日

瀬戸城山@佐久市瀬戸

八反田城から志賀川を挟んだ東の対岸に瀬戸城山がある。
写真は八反田城の裾を流れる志賀川沿いの道路から。中央奥の林が瀬戸城山。

中央の小山の森が八反田城。
指呼の距離といえるほどの距離で上原筑前に関連がありそうであるが、八反田城が台地の南東隅に向かって志賀川に対面しているのに対し、瀬戸城山は北西の志賀川に対面しているので内山城の西面の砦城の性質が強いように思える。

瀬戸城山から北を見る。
左山上の白い建物付近が中城峯跡。
ついでにその奥の山が浅間山。右奥は平尾城辺りになろうか。



「信濃史料巻十一」天文九年(1540) 武田信虎、佐久郡に攻入り、諸城を陥る、(勝山記)に「…小山田殿(昌辰)の代わりとして、小林宮内助殿モ一城ヲカマエ申候…」とあり。
天文二〇年九月二〇日(1551) 武田晴信、上原昌辰小山田備中守、をして、大井貞清に替り、重ねて佐久郡内山城に入らしむ、 (高白斉記)
天文二〇年九月二〇日(1551) 武田晴信、上原昌辰小山田備中守、をして、大井貞清に替り、重ねて佐久郡内山城に入らしむ、 (高白斉記)
永禄四年四月一七日(1561) 武田信玄、市川右馬助等に、佐久郡瀬戸内の地等を宛行ふ、(信濃史料巻十二)
永禄一一年九月一六日(1568) 佐久郡上原筑前の知行地の検地行はる、(上原筑前守御恩御検地帳)(信濃史料巻十三)

落としもあるかもしれないが、関りありそうな所を信濃史料から拾ってみた。
この付近一帯は大井氏の影響下であったが、武田氏の佐久侵攻から上原昌辰が内山城に入りその勢力下にあったと思われ、八反田城に伝上原築前屋敷跡があることからも上原昌辰(小山田備中守)に関りが深そうである。

北西から志賀川を挟んで見た瀬戸城山。

南から見た瀬戸城山。

瀬戸城山の北面斜面と志賀川の間は田畑であるが、当時は志賀川の淵か湿地帯であったろうと思われる。
奥に見える白い建物の山の左先端が中城峯跡とおもわれる。

北西にある登り口。

北側斜面の畑は郭跡か。

畑の最東端付近。
南側の一段高い所に小さな郭状削平地があり、墓地となっているが桝形虎口であったかもしれない。

郭状削平地から最高所への平場の登り口。

最高所の平場の南西方面を見る。
この方向斜面は数段の段郭状になるが、小須田家墓がある他は概ねは畑地であったと思われる。
左隅の土盛が土塁跡の一部という。

最高所の平場。東方面を見る。
先の写真と同じものだが、土塁跡の一部という土盛が右手にある。

土塁跡の一部という土盛。

小須田家、森田家墓地の一段下の御堂。

東へとつづく道。
この先に南北に岡を横切る道があり、それが堀であったかもしれないと「信濃の山城と館」にある。
また同書に、「志賀川沿いの土豪屋敷に続く丘の上に若干の防御施設をつくったものでは」とある。そうならば、東の堀から西側の段郭までが防御施設であり、西側の段郭下の集落に土豪屋敷が在ったということになろうか。
確認はしていないが、西側には神明神社がある。そこか、その西側辺り、橋までの間になろうか。
瀬戸集落の氏姓は調べていないにでこれ以上の推測はできない。



先の南北に岡を横切る堀に通じる道。

北の橋から見た瀬戸城山。



2018、9月初訪。



2018年10月6日土曜日

鳥坂城@佐久市新子田

南の田切から見た鳥坂城。
「長野県町村誌」に「…東方にから堀あり、南西北の三面は崖岩絶壁、高さおよそ五、六尺、昇降し難し、その内は平坦地なり。しかし何時代、某氏の遺構であるか記録も伝えられない。ただ昔の城跡だと口伝えにあるだけである。」とあるらしい。
「平賀成瀬佐久郡平鈞絵図」(天正の古地図(1573~1593))に「鳥坂城、上原伊賀守住」とあるようだが詳細は不明という。
「信濃の山城と館」では、土豪層の館城としては大きすぎ、武田氏や北条氏が入って兵站基地として築いた可能性があるのではとしている。

鳥坂城と浅井城
同じ「平賀成瀬佐久郡平鈞絵図」には、隣接する浅井城に「浅井城、小林右近住」「永弐百貫文、安原小林右近介」等の記載があるというので、戦国末期の一時期には両城にはそれぞれ違う者がいたことになろう。
上原伊賀守は「小山田虎満の当初の名乗りが「上原伊賀守」であったことは1967年に平林富三により指摘された。(平林『郷土研究「千曲の浅瀬』1973年(初出:1967年))
平林は備中守家の系譜を、古備中 - 昌辰(上原伊賀守)- 昌行の三代とした。他方で黒田基樹は、2002年・2003年の研究により備中守家の諱が虎満(玄怡、古備中)- 昌成であることを指摘し、二代とした。」(Wikipedia)
虎満も虎満の父も子も同じ伊賀守の通称らしいく、上原を名乗っていないとも言い切れないので「上原伊賀守」が小山田虎満とも言い切れないが、いずれにせよ上原伊賀守は小山田虎満の系譜の者といえようか。
「永禄10年(1567年)2月には、嫡男昌成(菅右衛門尉)への知行・同心衆の譲与を認められていることから、この頃に隠居したと考えられ[11]、同年8月に生島足島神社へ奉納された起請文には虎満の名が見られず、以降は昌成が備中守を称している。」(Wikipedia)
「虎満の終見文書は元亀3年(1572年)付の武田家朱印状「柏木文書」で、『高野山蓮華定院過去帳』から没年は天正7年(1579年)10月12日であり、その死去の時まで内山城代であった。」(Wikipedia)
Wikipediaに頼るものぐさぶりで何だが、「平賀成瀬佐久郡平鈞絵図」(天正の古地図(1573~1593))の頃に「小山田虎満」は隠居しているが、死去の時まで内山城代というので引き続き佐久のこの地方に支配力を持っていたものと思われる。
内山城を中心に「浅井城、小林右近住」や八反田城、深堀城など周辺の城砦は、およそこの辺に関わるものではないか。

だだし、「信濃の山城と館」八反田城には、上原築前があり平賀氏の族とも諏訪氏の族ともある。この辺はいずれ調べてみたい。

以上から「信濃の山城と館」に当てはめるなら、武田氏が兵站基地として築き、上原伊賀守(小山田虎満)が管理支配した可能性がある。といえそうか。

鳥坂城虎口の北側付近から浅井城方面を見る。
閼伽流山城や平賀城のある山尾根。

鳥坂城虎口の北側付近から鳥坂城虎口方面を見る。
虎口へ向かう一本の道。

北方向の堀割。

写真では分かりにくいが、手前の畑の奥の窪地が南方向の堀割。
手前の畑は埋め立てられたか、虎口と推測される付近ゆえに何らかの施設があったものか。

城内はかなり広い平地。

北を振り返る。

北方の墓地方面。確認はしていない。

先端付近の北側。

先端付近。

西先端付近から振り返る。

南の田切からみた浅井城。

南の田切からみた鳥坂城と浅井城。

鳥坂城と西側の田切。「信濃の山城と館」には星谷の田切とある。

星谷の田切。

浅間山と田切の風景。


2018、10月初訪

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...