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2017年12月19日火曜日

岩門城@上田市古里岩門


土塁跡に建つ正一位稲荷
岩門城・本城・堀の内とも。
伝承も記録も不明ながら成立は鎌倉時代末までさかのぼるともいわれる。
鎌倉時代に地頭として赴任した太田氏の居館が起源という説もあるが詳しいことはわからない。武田信玄が村上義清を攻めたときに岩門城の城将は逃亡したと伝わる。

「信濃の山城と館〈3〉上田・小県編」(宮坂武男氏)には、
「中世から岩門の村が存在しているので、ここに居城した豪族がいたことが考えられる。」「このあたりを所領した豪族は海野氏、太田氏、小宮山氏などがあるが、これらの氏人に関連のものであろうか。」とし。また、「岩門神社が鬼門に当たり、何らかの施設があったと思われる。」としている。
岩門神社l参照

武田信玄が村上義清を攻めたときに岩門城の城将は逃亡したと伝わる。とされるが、領主一族の諸流がその地に残り帰農したと思われる例も見られ、その家臣に於いても同様である。もっとも、それが許される情勢であればだが。

推察をかくと、鎌倉時代に地頭として赴任した太田氏、或は海野氏代官小宮山氏あたりが築き、村上氏の小県侵攻により近くの染谷城ともども村上氏配下の者により使用された。やがて武田氏により村上氏が越後に落ちると武田氏の武将真田氏の支配下に置かれ、おそらくは真田配下の者たちが入城したのだろう。
徳川との上田合戦に染谷城が使われていることから、戦国末期、真田氏の松代移封までは岩門城も機能していたのではないだろうか。
因みに岩門の南、染谷台の南端、現国分寺裏の段丘上にある「国露津穂神社諏訪宮」が岩門城に附属する要害っぽいのだがどうであろう。また常田池段丘上、古里の長福寺も要害っぽい立地である。こちらは染谷城と連動していたのではないだろうか。

以上の推察は素人である筆者には根拠を示すこともできないが、地元が近い故の昔からの疑問である。


岩門神社が茅野家に関わるのではとしたが、岩門城周辺の探索をしたところ、堂の坂の墓地には香山家と坂口家があり、香山家は墓石からみても6家はあり、岩門集落を中心に小里地域に18戸程ある(苗字でポン調)。家紋は丸に三っ引。
坂口家は岩門集落周辺に幾らかが散在する程度で、丸に片喰である。
この2氏が岩門城に関わるものか確証はないが、おそらく江戸初期にはこの地に在ったと思われる氏族で、真田、村上、海野らのどの時代かで浅からず関わったのではないだろうか。

また、岩門城の南に岩門集落の氏族と思われる共同墓地があり、やはり岩門城の歴史に関わる可能性があることからこれらを記して後の考証に付したい。

岩門神社の直下の土手に
茅野家    梶    1基    
岩門城の直下の土手(堂の坂)に
香山家    三っ引    6基 
坂口家    片喰    1基
岩門城から南に離れた土手に
茅野家    梶    5基
宮島家    橘    5基
宮島家    抱き茗荷    1基
荒井家    蔦    1基
竹内家    九枚笹    1基
堀家       三つ割り菊 ?   1基
杉浦家    三本杉    1基
内川家    橘    1基
佐藤家    源氏車    1基
斎藤家    不明    1基
渡辺家    不明    1基
さらに南の離れた土手に
平林家    三つ星    1基

1基2基としているが、○○家など近年の一族の墓石を数えたもので、○○衛門など個人の墓数を数えたものではない。よって戸数はもっと多い可能性がある。
また、岩門城周辺の集落のほかに岩門地籍は広く、全てを把握しているものではなく、下の河原や田畑のどこかには、まだ他家の墓所もあるかもしれない。

これら氏族はおそらく真田時代にを起源にするものと、それ以前からの土着のものとが居ると思われるが、他地域の氏族の流れ等と照らし合わせることで、中世世界に対する何かしらのがイメージ出来ればと思うものである。



 ③辺りから④の小字名、本城方面をみる。
北側のホリノ内
 絵地図上の④の北側のホリノ内。左に見える土塁跡から右手の髙くなる段差まで10m程が堀跡と推定されている。

ホリノ内
 絵地図上の⑤の北側のホリノ内に当たるところ。幅10mの堀跡とされている。

土塁跡
 「信濃の山城と館〈3〉上田・小県編」(宮坂武男氏)では、堀跡(ホリノ内)の北側の土塁は、ここから正一位稲荷の土塁遺構まで東西に約90m繋がってあったとしている。

土塁跡に建つ庚申塔
 絵地図上の⑤辺りの土塁跡に建つ庚申塔や道祖神らしき石仏。

西側の堀跡
 絵地図上の⑤辺りから南側を見たところ。城の西側の堀跡とされている。
右手の民家の祠は氏神だろうか、朽ちかけているが立派な祠が祀られていたと思われる。

秋葉神社
 絵地図上の⑤辺りにある土塁上の秋葉神社。火伏せの神として城跡にあることが多い。
秋葉神社裏の堀跡

小字名、本城
 絵地図上のウブヤ方面から見た④の小字名、本城。石積は新しいものだと思うが一段高くなっている。本郭跡と思われる。

 ウブヤと堂の坂の間の堀切。堂の坂は堀切跡にできたものだろう。
堂の坂
 下の畑につながり、対岸の蒼久保の人達が神川を渡り堂の坂を登り、上田への従来に使ったという。
堂分と思われるあたり
堂分と堂坂の周辺
 堂分の地名はこの辺りまでが堂(大日堂か)の敷地を表すものだろうか。
「信濃の山城と館〈3〉上田・小県編」(宮坂武男氏)では、この辺りは南側の堀とし、そのまま堂の坂に竪堀として落ちている。
また大手の場所は判断し難いが、この辺りの堀に折れがあるので、そのあたりが虎口であったかもしれないとしている。


宮の坂

絵地図上の③の宮の坂。岩門神社と岩門城の間にあり、ホリノ内の堀から竪堀となり神川へ落ちている。
岩門神社l参照
東斜面の郭跡
絵地図上の③の宮の坂の南側の急斜面にある郭。
「信濃の山城と館〈3〉上田・小県編」(宮坂武男氏)にあるように、奥にもう一段ある。
東斜面の郭跡

郭のある東側は神川ががつくった段丘で、その斜面はもはや崖である。

その他の遺構として、「信濃の山城と館〈3〉上田・小県編」(宮坂武男氏)では、絵地図上の④の北側のホリノ内とウブヤの境あたりに竪堀や数段の郭が描かれているが、今回は見られなかった。

岩門城想像図
「信濃の山城と館〈3〉上田・小県編」をほぼトレースした絵図。


国分寺道跡
国分寺道跡の地蔵菩薩
絵地図上の⑥の地蔵菩薩。国分寺道の脇に建つ。

大日堂跡と国分寺道跡
この城跡を縦に突き抜ける国分寺道は、祢津街道から国分寺に詣でる古道であったという。

 また、城跡内は「活文禅師遺跡三号岩門大日堂跡」として市指定史跡となっている。
幕末に活文禅師が隠棲し寺子屋を開いた場所で、佐久間象山が松代から通って教えを受けたことで知られる。
当時の大きさは建物の構造から見て約70平米(21 坪)くらいと推定されている。庭には象山駒つなぎの松(2代目)がある。

岩門集落



2015年10月

2017年9月3日日曜日

長國寺と真田信之霊屋@松代町

曹洞宗(本山:大本山永平寺、大本山総持寺)

長國寺本堂
「天文16(1547)年、信濃国の在地領主であった真田幸隆が、畏敬する伝為晃運(でんいこううん)禅師を開山第一世に招き、一族の菩提寺として松尾(現・)城内に「真田山長谷寺(しんでんざんちょうこくじ)」を建立しました。その後、永禄7(1564)年に松尾城外へと移され、本格的な禅寺として諸施設を整えました。江戸幕府が開かれると、幸隆の孫にあたる真田信之は上田藩主となりますが、元和8(1622)年の松代移封にともなって現在の場所へと移転し、寺号も「長國寺」(國は国の旧字体)と改めて、今日にいたっています。」(長國寺HP)

長國寺の総門
 「真田家の菩提寺として創建され、歴代松代藩主の墓所でもあった長國寺には、真田一族ゆかりの寺宝が数多く残っています。長國寺と最も深い縁で結ばれた真田家の人物が、初代松代藩主であった真田信之です。講談や小説で英雄的に描かれた父・昌幸や弟・信繁(幸村)の影に隠れてしまいがちですが、戦乱の世で真田家を守り抜き、明治まで続く松代藩真田家の礎を築いた真田家最大の功労者といえるでしょう。明治5(1872)年の大火での焼失を免れた「初代松代藩主真田信之公の霊廟」は、往時の真田家の繁栄を彷彿とさせるきらびやかな造りで、国指定重要文化財に指定されています。霊廟の裏手にある歴代藩主の墓所は、大名の墓としては決して宏壮なものではありませんが、真田家300年の歴史を語るように静寂な佇まいを見せてくれます。」(長國寺HP)

長國寺本堂

元和八年(1622)、信之は幕府に命じられて江戸へ上がり、松代への移封を言い渡された。
上田への帰途、鴻巣宿から家臣出浦対馬守に宛てた信之書状で、松代への移封を喜ぶ一方、追伸で「我らはもはや老後に及び、不要なものと思うが、上意であるというので、子孫のためにも命令にしたがい松代へ移ることにする」と心情をのぞかせ、上田の家臣に対して心配することのないようにと案じている。(資料で読み解く真田一族より改編)

何代にもわたって守り抜いてきた先祖伝来の地を去るに当たり、信之は多くのものを松代へ移している。
この寺も、天文16年(1547年)に真田幸隆が建立した真田町長の長谷寺を移して菩提寺としたもので、幸隆や昌幸の墓のある長谷寺を末寺としている。


開山堂
 もとは三代真田幸道公のために享保12(1727)年に建てられた御霊屋。明治5年(1872)に同寺が伽藍諸堂を焼失したため、同19年(1886)本堂再建の際、この霊屋を現在の場所に移築して開山堂としたものという。



初代藩主真田信之公御霊屋
 万治3年(1660)に建立された松代藩祖・真田信之の御霊屋(おたまや)。桁行3間、梁間4間の入母屋造り平入り、屋根は柿葺き(こけらぶき)の壮麗な建築で、いたるところに透かし彫りや丸彫りが施され、なかでも正面の唐破風の雌雄の鶴は左甚五郎作と伝えられる。内部の格天井には狩野探幽筆と伝わる天井画、奥に禅宗様仏壇を据え、現在は信之公と小松姫御夫妻の位碑を安置しているとのこと。国指定重要文化財に指定。
左甚五郎作と伝わる雌雄の鶴


四代真田信弘公御霊屋
 真田信之御霊屋の南隣に並ぶ、四代・信弘の御霊屋(おたまや)。建立は元文元年(1736)。方三間の宝形造り、柿葺き、装飾は唐草の透かし彫りだけと簡素な造りで多少傷んできている。現在は歴代藩夫人らの位牌が安置されているとのこと。県宝に指定。

真田家墓所入口

真田家墓所

真田信之公の墓
鳥居があるのは神格化されたものか。

江戸中期(八代将軍吉宗の時代と説明されていたと記憶、石塔裏に建立銘があったが写真に収めなかった)に建立された昌幸、幸隆、信綱の供養碑。
近くに、大正3(1914)年に十一代当主真田幸正によって建立された真田幸村父子の供養碑もある。


 松代藩六代藩主・真田幸弘の時代に藩政改革を行い、宝暦12(1762)年に46歳で没した恩田木工民親の墓所があるが、写真は撮り忘れた。

長國寺墓所
境内の墓地は、小山田家累代の墓など真田家臣の墓も多く、宝篋印塔の乱立する光景は威圧感がある。
不謹慎ながら、時間のある時にじっくり歩いてみたいものである。


2017年8月初訪

2017年7月31日月曜日

実相院@上田市真田町傍陽


金縄山実相院観音寺。
創建は神亀2年(725)、行基により開かれたという。
元の位置は山の北西、奥宮とされる「堂平」という所で霊応山慈済寺実相院といったらしい。大同元年(806)、坂上田村麻呂将軍東征中、角間渓谷の「毘邪(ひや)王」という鬼を馬頭観音の霊験により捕らえ、鉄縄で縛ったことから金縄山慈済寺実相院と山号を改称し、この地に移ったという。
本尊の馬頭観音は鎌倉時代(1185頃 - 1333)初期のもの。
実相院には、明治の神仏習合で明治の廃仏令で廃寺になったとき、山家神社別当寺であった白山寺の本尊だった木彫りの十一面観音像が遷され所蔵されている。



応永3年(1396)の落雷、天文年間(1532~1555)の兵火により多くの堂宇、寺宝、記録などが焼失。寛保2年(1743)に当時の上田城の城主松平伊賀守が本堂を再建している。
懸造の観音堂は天明3年(1783)に移築再建されたもので20年間の歳月がかけられたという。


門柱。


金縄山の記❨縁起❩
当山は神亀二年、僧、行基法師の建立と伝う。本尊馬頭観世音、字峯山の奥、保科に通じる「堂平」は奥の院にして、霊応山慈済寺実相院と呼ぶ、坂上田村麿将軍、東征のみぎり角間の岩窟に鬼賊「毘耶」を観音の御加護により刑しこの山下に埋む古墳あり。
「毘耶」の後生善処のため延命地蔵尊を安置す、将軍鉄縄をもって「毘耶」を縛せしにより金縄山観音寺実相院と改む。
「堂平❨どうだいら❩」「多寒平❨たかんだいら❩」=高平=より将軍寺院をこの地に引下す、時に大同元年なり、1150年前。
応永三年落雷のため炎上、天文年中、兵火により、ことごとく、焼失す、その后、承平二百、寛保二年上田城主松平伊賀守本堂再建、天明三年西陵岩上に広壮静寂美の舞台造りの観音堂を移築再建二十有余年間の才月を経て寛政十二年入佛供養終了、焼失の堂跡を蓮池と成し今日に至る、開創神亀二年より昭和五十年に至るまで法燈1251年、住持の世伝、六十六代なり、境内より南方なに佐久平をはじめ立科、八ヶ岳の裾の彼方に富士山が展望される閑寂な観音霊場なり、❨宗教法人天台宗比叡山末実相院❩
境内の主なる堂、塔、碑、老樹
鬼松鬼石の古墳、宝篋院塔、法華一宇一句塔、当山縁由記碑、一茶句碑、延命地蔵堂、鐘楼堂、英霊殿、?住霊園、神代杉、桜の老樹

 参道と六地蔵。

 境内左右。金縄学校跡碑。

 本堂。

鐘つき堂。

一茶の碑と池。これが焼失の堂跡という蓮池か。
碑はよく読んでないがおそらく、古池や蛙飛び込む水の音…かな。

実相院宝篋印塔
実相院の宝篋印塔。
南北朝時代の真田の宝篋印塔として、穴沢の弾正塚宝篋印塔、本原の中原宝篋印塔とともに貴重である。
貞治6年(北朝年号、1367)3月の陰刻がある。この宝篋印塔は「堂平」より一段低い「高寺」にあったという。それを明治初年に現参道入口の付近に移し、さらに昭和初期本堂前の現位置へ安置したという。
将軍執権堀田式部少輔の建立とされるが、堀田式部については資料にないという。(後の真田家臣堀田作兵衛興重の祖であろうか。)

 新しそうな石祠。
古そうな石祠。

戦没者慰霊殿。
謎の釜。
大杉。これが神代杉か。

鬼松地蔵堂
鬼松地蔵堂。
毘邪王を縛った松、埋めたとされる鬼石を祀ったものという。
鬼賊「毘耶」を観音の御加護により刑しこの山下に埋む古墳あり。という鬼松鬼石の古墳がどれなのかわからないが、鬼松地蔵堂のこの場所ということか。




観音堂
天明3年(1783)に移築再建という懸造りの観音堂は必見。


さて、「堂平」という所、真田町教育委員会の地図でみると結構な山奥である。
これは推測で検証はしていないが、当地域の横尾・曲尾の中世の城館近くに寺院があるように、洗馬城・堀の内屋敷跡の近くに現実相院があることから、実相院は洗馬城・堀の内屋敷が造られるとともに現地に移ったとするのが自然なのかと思う。1400年の大塔合戦に横尾・曲尾・実田の名が見えることからそれ以前ではあったろう。
洗馬城参照。
萩の館(堀の内)参照。


古刹であることに違いないだろうが、行基により開かれたと云う追慕による伝承は全国の至る所にある。
また、大同元年(806)の坂上田村麻呂将軍東征もいかにもな話しであり、やはり東日本に多い。
大和朝廷による蝦夷征討は「天武系」から「天智系」へと皇統が移ったことの正統性主張と権威誇示の意味合いもあったともいわれ、大同年間を開基とされる説の寺社が各地に多いのも、大和朝廷による蝦夷征討を経たことによる何か一つの時代的な区切りを意味していると言うことなのだろう。

鬼とされる毘邪王についても、朝廷に従わない輩を指すものとするのが妥当であり、伝承の「鬼達を率いて村人に悪行の限りを尽くしていた。」とは勿論限らないわけで、安曇野に伝わる「八面大王」が盗賊として描かれる反面、民を救おうとした英雄としても描かれるように、概ね鬼退治伝説は大和朝廷による旧時代の制圧、支配を意味するものと考えてよいものと思う。勝者の歴史に埋もれたそれは先住の民族だったかもしれないし、またその文化のことであったのかもしれないという事である。

毘邪王の根城は角間渓谷の岩屋とも鬼ヶ城ともいわれているが、渓谷への入口付近には真田氏に関連するとされる松尾古城跡や日向畑遺跡があり、諸説ある真田氏発祥の地とされるうちのひとつである。
その真田氏の出自は大伴氏を祖とするという説もあり、毘邪退治はその朝廷勢力である大伴氏による旧勢力の征服であった可能性もある。大伴氏は馬をもって畿内に威を張った豪族で、信濃の牧経営にも関わると推測されているからである。
伝説で「田村麻呂は毘邪を都に連行しようとしたが、あまりに泣き喚くので…」とあり、それは馬を飼う技術(者)を持ち去ろう(掌握しよう)とする意図と受け取れる。泣き喚いた毘邪は鉄縄に縛られたまま埋められてしまう。

真田町には馬牧に関わると思われる地名が多くみられ、古代の国牧ではとの推測がなされていて、実相院本尊の馬頭観音も地域の馬牧経営を示唆するものとされている。
この実相院のある洗馬周辺こそ真田氏発祥の地であるとされる所以の一である。

馬頭観音の信仰の起源がいつかはわからないが、実相院本尊の馬頭観音は鎌倉時代(1185頃 - 1333)初期のもの。また「日本最古の明確な造像例は石川豊財院の木像で,11世紀の作と推定される。」(ウィキペディア)ことから推察するに、毘邪退治伝説は早くても平安後期以降に馬頭観音の霊験として併合創作されたのではないかとおもう。
勿論、古代の国牧ではとの推測がなされている真田地域に早期からその土壌があったものなのであろう。

もう一つ。
馬を飼う技術は渡来系の技術であり、製鉄もまた渡来系の人達の技術である。
この地域が古代の牧があったなら鉄との関わりもありだろう。
諏訪大社の伝承「洩矢神の鉄輪を武具が建御名方神の藤の枝により鉄輪が朽ちて敗北した。」の意味するのは製鉄技術の新旧交代という説もある。
「毘邪を鉄縄で縛った」鉄縄とは何を意味するのであろう。
鉄をもたない毘邪が鉄により負かされた。あるいは諏訪の洩矢神のように旧い鉄が新しく強い鉄によって征服されたことを示唆しているのかもしれない。

但し真田地域の製鉄を物語るものは、十世紀代(平安時代)の境田遺跡、四日市遺跡の小鍛冶遺構で、鉄滓などが出土し同遺跡出土の鉄製農具との関連を指摘されているのみであり、六世紀末前後の古墳時代後期とされる住居跡や古墳群からは鉄製品は出土するものの、製鉄の痕跡は指摘されていない。


週刊上田の「石船と女神」(滝沢きわこ)中で「古代朝鮮語」による地名等の解明に触れており非常に興味深い。
2007年4月21日号「石船と女神・おはなしと解説」中、真田町の鬼伝説にふれ
「坂上田村麻呂将軍が、丸子町の鬼窪(荻窪)から鬼沢(神川)を通り角間(真田)の「毘耶(ひや)」という鬼を退治したそうな。その時、田村麻呂将軍、鬼を縛ったのが鉄縄だそう。
地名も、菅平のスガは鉄磨ぎと読める。真田は鉄生みの地。長と書いて「お(を)さ」は、韓国語で大きな存在を表すウサ・ウシ・ウス。日本に来て「をさ」という大和ことばになったとされる。一方、をさ・うし・うすは丘鉄(鉄鉱石)のことだが、砂鉄まで含む「鉄」全般を指称する語であったと言われるのは、李寧熙先生である。」
(注・李寧熙先生とは東京出身の韓国人作家、『もう一つの万葉集』著者。)
(中略)、
「鬼(鍛冶師)を金縄で縛ったとの伝説の地、傍陽の実相院境内で風化した花崗岩を発見した。花崗岩の中に砂鉄はほぼ遍在しているそうである。洗馬(鉄の場の意と考える)川の地名もあることから、ここも名だたる鉄処であったことがうかがえる。」
と締めている。

この「石船と女神・おはなしと解説」は面白いので「石舟神社」の項あたりでもう少し取り上げたいと思っている。
また、未見だが「鉄こそ歴史だ!!真田の強さは鉄にあり」(宮島武義氏著)という古代朝鮮語から歴史を紐解く試みた郷土本があるらしく一読したいと思っている。


以上寺伝から妄想を広げ、備忘録とあるように勝手なことを書き連ねたが、実相院が毘邪や朝廷勢力にどのように関わったのか。また地域の氏族との関係など、整合性を図れるよう多面的に研究を続けられたらと思う。





2017年初訪。
2019、11月再訪。写真追加。一部追記。

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...