ラベル 御馬寄城 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 御馬寄城 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年2月1日土曜日

御馬寄城@佐久市御馬寄

「長野県町村誌」に、 〔古城址〕村の丑の方四町、字城にあり。東西四十間、南北二十間、東西に堀あり、今畑となりて纔わずかに形跡を存す。千曲川に臨みて平坦なり。城山、城ノ腰、城ノ上の字あり。何人の居たるや不詳。或は古昔牧監居館の址ならんか。とある。
平安期,官牧望月牧の牧馬を検査し朝廷への貢馬を寄せ集めた所が御馬寄との伝承があり、古くからこの地(現在は田中島とよばれている)を古城跡、さらには望月牧の牧監の居館跡ではないかとみられていたようである。

郷土史家の一説には、旧浅科村の一帯は昔は矢嶋ヶ原で望月氏一族である矢嶋(八嶋)氏が牧を運営し、望月牧として御牧原台地より生産性が高かったとある。
矢嶋氏が牧監かはわからないが、地名を考慮しても望月氏、とくに矢嶋氏に関わりがありそうである。
しかしながら、望月牧の牧監の居館としては腑に落ちない場所であり、やはり千曲川対岸の監視の役割が考えられ、そうすると、五領に大井氏が入った寛元年間❨1243~1245❩頃の築城も想定できそうである。


西側から。
千曲川に面した台地縁端にあり、東西に堀があったという。

西の堀があったであろうところ。
東の堀があったであろうところ。

東側から。
奥左の林が本来の突端。道路によって寸断されている。
現在の突端。

対岸。耳取大井氏の五領城五領大井館と相対しているのは気になるところ。

南方の塩名田は古くからも交通の要衝であったと思われる。


2019、11月初訪

2020年1月28日火曜日

五領城@佐久市塩名田

寛元年間❨1243~1245❩頃、大井又太郎光長の四男、又三郎行氏が耳取に居館して周辺地域を領知したとされており、その耳取大井氏の最初の居館の場所が五領❨五霊❩大井館と考えられ、五領城はその詰めの砦と考えられている。
大井氏又太郎光長のとき、所領をそれぞれ子供たちに分与して領知させた。
嫡男が小諸市の大室、次男が長瀞❨長土呂❩、三男三郎行光が宗家の岩村田、四男が耳取、五男が森山、六男が平原に入って大井庄を治めたという。

その後の戦乱期に入って防御上の理由から耳取城を築いて移ったと考えられている。

初期の耳取大井氏はこの五領館から周辺を統治した。中山道の通る塩名田には、従来にも千曲川の渡しがあったであろうことは対岸に御馬寄城があることからも、交通の要衝であったことが推測される。
南1kmのところには駒形城(駒形神社)があり耳取城主大井政継再興と伝わるが、五領大井館時代に領知していたかどうかはわからない。しかし砦程度の備えは欲しいだろうし、北にも宮ノ前辺りに見張り場があってもいい。

中山道の通る塩名田の北方台地の突端を堀切って築かれている。
南側は崖で侵入は難しい。北側は沢の谷地形となっているが比高が低いので要害性は低そうである。東側は二本の堀切で台地と区切っているが、台地側は整地され元々の地形がわからなくなっている。
台地続き北のすぐ下には大井館があったとされているので、台地上には他にも何かしらの施設があったかもしれない。


北側の沢。
沢から見上げた五領城。

沢の上部から、(ウ)の堀切が見える。
(ウ)の堀切。
(ウ)の堀切と(2)の郭の高台にある石祠。
(2)の郭。
(イ)の堀切と奥は(1)の郭。
ここから先は笹藪で入っていない。「信濃の山城と館」には(1)の郭の先には(ア)の堀切と(3)の郭が記されている。
(3)の郭へは西先端の墓地から行けるかとも思ったが、ちょっとした急斜面であった。
西先端の墓地にある石祠。

台地上から五領城を見る。
沢の北側の台地上は大井館の後背になる。
現在は道路が貫通している。




2019、11月初訪

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...