ラベル 宇賀山砦 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 宇賀山砦 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2019年11月20日水曜日

東漸寺@小諸市大字滋野甲

当院は「宇賀山観音院東漸寺」と称し、宗派は天台宗である。
戦乱・火災等で貞和二年❨1346❩二十一世専海住職までの資料がのこっておらず、開基年代等が定かではない。
寺伝によれば、平安時代後期第三代天台座主慈覚大師圓仁が東国巡化の折に開基したと伝えられている。
初めは洞善寺と称していたが、正徳五年❨1715❩以降から東漸寺と称している。
寺子屋を長期間行っていたが、元治元年❨1864❩手習い子どもの火鉢よりの失火により本堂・学校・庫裡を兼ねて、現在の庫裡が建てられた。明治六年❨1873❩より精業学校と呼ばれた。又、現在の本堂は、昭和四年❨1929❩敷地拡張を行い、昭和十七年❨1942❩落成した。❨東漸寺パンフレットより❩

駐車場より
案内板
六地蔵

山門

参道

大銀杏

本堂

境内より。

鬼瓦

境内。石造三重塔など。

宇賀観音堂の参道。
宇賀観音堂。

観音堂由来
天長年間第三世天台座主慈覚大師円仁が千曲川北岸の地観音平に馬頭観世音を本尊として開基したと伝えられる。
その後当山第二十八世円海代正徳二年に深沢の地へ移転佐久札所二番深沢観音として興隆「深沢につくりし罪もさんげせば朝日さすまに露と消えなん」と読まれた。
 昭和五十四年伽藍の老朽化に依り当地に移転新築宇賀観音と改称する。

観音堂内


宇賀観音堂の馬頭観音は、天長年間(824~834)第三世天台座主慈覚大師円仁が千曲川北岸の観音平に馬頭観世音を本尊として開基したと伝えており、その後深沢の地に移転し深沢観音として興隆。昭和54年伽藍の老巧化により当地へ移転という。

千曲川北岸の観音平とは観音平古墳のある辺りか。
千曲川北岸には古道が通っており、押出には深沢川の渡しがあったらしい。そんな旅の安全を守る意味もあったかもしれないが、「上田小県誌」では奈良原の「古寺跡」や傍陽の天台宗実相院、芝生田の天台宗東漸寺の持ちである深沢観音は馬と関わりの深く、牧と密教寺院の結びつきも考えられるとあり、新張牧に関わる祢津氏との縁が深いものかもしれない。


東漸寺門柱から正面の階段を上がったところに、関東大震災供養塔が建つが宇賀山砦跡である。


駐車場前の道の下に弁才天があった。



東漸寺遠望
大銀杏と本堂

2019、11月初訪

宇賀山砦@小諸市大字滋野甲

芝生田城(柴生田城)の北の丘陵に東漸寺があり、その東側に堀切遺構がある。
「信濃の山城と館」では東漸寺の山号にもなっている宇賀山から「宇賀山砦」と仮称し縄張り図を記している。
芝生田氏の館と考えられる遺構はあまりに貧弱であり、位置からしてもこの丘陵に詰め城、要害が築かれたものと思われている。

中心部は、北と西と東の三方を空堀で囲んで、北側には土塁跡がある。
尾根の東側は沢の切谷で天然の堀になっている。西の斜面下には宇賀観音堂があるが、防御的な遺構は見当たらない。
北の堀の東側に向かって道がついていて、東の沢に落ちているが堀切とも思える。
その北側一帯には土塁状の盛土が広範囲に見られる。

南の眼下には田畑の中に芝生田城が見える。付近の俗称地名に城東、城西、城の腰、馬場等があるという。
芝生田城付近から見た宇賀山。

東漸寺門柱。この正面が宇賀山砦。

階段を上ると中心部。
中央に関東大震災供養塔が建ち、奥に土塁が確認できる。

土塁。

土塁北側は空堀で、この堀は南側を除くの三方を囲んでいる。

北側から見た空堀と土塁。

北側の空堀に延長するようにある道は、堀のようにも見え、東側の沢の切谷に落ちている。沢は意外に深く天然の堀の役割をしている。

東側の沢。
沢の底は、沢が終わる南端に鳥居や稲荷宮石祠、磐座などがある。


北側の空堀に戻って、北側一帯には土塁状の盛土が広範囲に見られる。
「信濃の山城と館」では耕作のときのものか往古のものか判断出来ないが、或いは外郭として増設したものともとれる、とある。

北西一帯は緩い斜面の雑木林だがその中に天神社が祭られている。

北西一帯は緩い斜面、東側の沢の北側一帯はゴルフ練習場で北限はよくわからない。
芝生田氏居館」でもかい書いたが、永享八年(1436)「芦田下野守征伐」の芝生田・別府両城にはここも含まれるかもしれない。


2019、11月初訪

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...