永享八年(1436)の二月ころ、小笠原政康は芝生田と別府の両城を攻撃した。これが地名として芝生田のあらわれる最初である。(「東部町誌」)
「満済准后日記」の永享七年(1435)正月二十九日条に「大井トアシタト弓矢落居、かたがた然るべく存じ候」とある。
「東部町誌」ではこれを「芦田下野守征伐と海野・祢津氏」として説明している。
信濃を反目する関東公方のおさえにしたい京都室町幕府は、信濃守護小笠原政康と談合し芦田下野守征伐を決定した。(筆者註・もともと大井氏は小笠原氏の支族)
二月十七日の和睦も成立せず芦田氏征伐は開始される。
同年十月七日、関東の足利持氏と佐竹義憲の合戦により延期されるなどしたが、永享八年(1436)三月には、芦田氏を支援したと思われる祢津氏と海野氏が小笠原政康の攻撃を受けており、七月下旬には芦田氏も降状したと推定されている。
芦田氏は大井氏に降り、大塔合戦(1400)以来反守護であった祢津氏と海野氏も、この戦い以降は守護の指揮権に従うことになったのである。
将軍義教から小笠原政康への感状は、永享八年(1436)三月六日に「知隈河(千曲)を越え、祢津に差し寄せ、芝生田・別府両城を追ひ落とす。…(以下略)」。五月十八日に「今度祢津海野に対し合戦の時忠節を致し、親類・被官人等疵を被るの由、注進到来す。…(以下略)」。八月三日「芦田下野守のこと降参せしむの由…(以下略)」。
別府城は根津氏直轄地で根津氏本拠の目前であり、小笠原方の被害からも戦いの激しさが伺える。
根津氏直轄地は祢津西町に館をおき、加沢・別府・新張・奈良原さらに新張牧の牧場地域を含み、新張牧は湯の丸を越え群馬県側の田代方面まで広がっていたらしい。
『御符札之古書』から代官の支配地をみると、祢津田中(代官浦野氏)・小田中祢津(代官金屋氏・出沢氏(出浦氏か)・岡村氏)・大石(代官岡村氏)・桜井(代官桜井氏)・芝生田(代官芝生田氏)の五郷となる。
祢津氏に関する所領としては浦野(浦野氏)、岡(岡村氏)、塩原(塩原氏)、田沢(田沢氏)、奈良本(奈良本氏)、春日(春日氏)で、浦野氏・塩原氏・春日氏は平安期から鎌倉期初頭に祢津氏から別れて開発領主となったものらしい。
芝生田を見ると「御符礼之古書」に、柴生田石見守光信が享徳三年(1454)から文明十二年(1480)まで(沙弥常能は光信入道後の法名と考えられる)、文明十七年(1485)から柴生田伊豆守直光が頭役を務め、いずれも八貫文から十貫文で、所領規模では桜井とほぼ同じである(「東部町誌」)とある。
「東部町誌」より転載。
新家方面から流れるアライ堰と大石沢から分流した用水堰の交差する場所になる。
東・南・西の三方は堰が回り、石積で周囲より高くなっている。おそらく改修がされているだろうが当時の遺構を利用したものと思われる。
「東部町誌」にはこの辺りは犬走りのような「道敷き」が認められるとあるが判らなかった。
下の写真の奥に見える山には東漸寺と宇賀山砦がある。
「上田小県誌」では奈良原の「古寺跡」や傍陽の天台宗実相院、芝生田の天台宗東漸寺の持ちである深沢観音は馬と関わりの深く、牧と密教寺院の結びつきも考えられる(筆者註・主に馬頭観音)。とあり、新張牧に関わる祢津氏との縁が深いものとわかる。
「小県郡史」に「馬場といへる處は、城の東北約二町なる路上にあり、今水田になる。其傍の橋下に馬たらひ石とて、長四尺、幅二尺ばかりの石あり。「村誌」には此石を新張牧の遺物ならんといへど如何があるべき。」とあるが、道路そばの田の中の石のことか。
この馬場はまさに宇賀山砦の眼前であり、もはや宇賀山砦側の馬場という感さえある。
堀をうかがわせる周囲の低地とは結構な高低差がある。
一方の北面には石土塁跡が残る。
「小県郡史」には「北に三條の石塁ありて…」とあるが、現在遺るのは一条の石塁の一部のみである。
これら遺構に囲まれたところが館跡であろう。「小県郡史」には「北に三條の石塁ありて…」とあるが、現在遺るのは一条の石塁の一部のみである。
これは芝生田村中で正徳三年に建てたもので、「小笠原氏常盤介紀長武之碑、明徳元庚午年九月廿五日、忠功院殿雪窓浄運大居士」と陰刻されているという。
「小県郡史」に「…里伝に小笠原長武かつて此城に居りしといふ。」とある。
しかし「東部町誌」では、ここにこの碑が建ったために小笠原氏の館とみる説もあるが、そうではなくて芝生田氏の館であろうとしている。
おそらく要害としての芝生田城は北の山にある宇賀山砦のことであり、ここは平時の居館であったのだろう。別府城も新張東側の祢津支城の事と推測するがどうであろう。
堰を堀に利用したのであれば、芝生田氏統治の頃から周囲は水田であったものと思う。
すぐ南の芝生田集落には東山道が通っていただろう。
芝生田氏は代官としてこれらを治めていた。
根津氏や海野氏が本領に敵を許したのはこの時が初めてであったろうという。
2018、6月初訪
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