「みみとりじんじゃ」とよみ、「耳取神社」ともいう。
平安時代に創建され、木曽義仲が平家追討の旗挙をした際、勝利を祈願したと伝わる。
耳取区は、江戸時代、火縄銃の製造が盛んで江戸幕府や小諸藩へ銃を収めており、境内で射撃や火薬の実験を行っていた記録が古文書に残っているらしい。
例大祭には古式砲術の奉納が行われるという。
鳥居。
手水舎。
拝殿。
本殿。
うん。
境内社。
玄江院参道の延長線上にあり、脇の道は段丘下へ下るもので古いものと思われる。
この旧道を挟んだ段丘上先端付近は名称も詳細も不明ながら、「小諸市誌」地図に中世遺構と表記され、段丘下には「伝万福寺跡」がある。
「小諸市誌」に、古い街道が布施川合流地点付近から千曲川を渡り、彌美登里神社の横あたりを上がり、鷺林城の辺りを通り御代田方面へ向かったのではないかとあり、古道はおそらく湧玉川にそったものと思われる。
彌美登里神社関して「旧耳取神社跡」の口伝があり後述するが、現彌美登里神社の場所はそういった要所で、おそらく大井氏の街道の見張が置かれたところであったと推測する。
この旧道を挟んだ段丘上先端付近は名称も詳細も不明ながら、「小諸市誌」地図に中世遺構と表記され、段丘下には「伝万福寺跡」がある。
「小諸市誌」に、古い街道が布施川合流地点付近から千曲川を渡り、彌美登里神社の横あたりを上がり、鷺林城の辺りを通り御代田方面へ向かったのではないかとあり、古道はおそらく湧玉川にそったものと思われる。
彌美登里神社関して「旧耳取神社跡」の口伝があり後述するが、現彌美登里神社の場所はそういった要所で、おそらく大井氏の街道の見張が置かれたところであったと推測する。
「旧耳取神社跡」
「小諸市誌」の巻末ちかくの口碑伝説に「耳取神社」のことが記している。
「三岡村耳取神社は天文の頃迄は諏訪神社と称して、現在の神社より約7町南、小諸街道から40間入った所の、五領地籍に在ったが、天文15年に兵火に逢って焼失したという。現在その跡に石の祠がある。耳取神社の御神体として木像が2体安置されているが、これは村上天皇の皇子の従者が刻んだものだと言われている。」
左奥の方形の高台がいかにもであるが石祠は確認していない。
五領大井館近くで、付近には「五霊神社銘の石祠」があるという。
また同誌に、「耳取」❨三岡村❩というのは御牧の駒の逃げたのを、耳を取って捕らえたことから名づけたものだというとある。
2019、10月初訪
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