2019年4月25日木曜日

砂原峠旗塚@上田市富士山砂原山

砂原峠の北の山には五加山城(海部野城)があり、その西に連なる小山(砂原山というらしい)に砂原峠旗塚はある。
「長野県町村誌」に「…字砂原峠にあり。山上一平地に方九尺、高四尺の塚十四あり。」

ネット情報で未見だが「信州の伝説」という昭和の郷土史書に「砂原峠旗塚」を「…かつては周囲七〇メートルほどのものが一四もあったといい、頂上にあるものが一番大きい。 石のほこらが一つ。」とあり、また上田原の旗塚地籍には上田原の合戦で村上側の旗を立てたところと云うと紹介しているという。
周囲七〇メートルは誤記と思うが、14というのはおおよそ合っていそうである。

旗塚は上小地方だけでも数か所知られるようで、筆者も他に真田の「打越城」、武石の「山の鼻砦」(未見)を把握している。最近では神科の伊勢崎城の西「鐘かけの松」近くに「伊勢山の旗塚」があったという地方誌記事も見た他、筆者自身も望月の「望月城砦群」を歩いたときに旗塚と思われる遺構を確認している。
旗塚の使用目的はいろいろと推測されてよく分からないが、領有を誇示、要所の監視、味方を多く見せる戦術的なもの等であろうか。

砂原峠
南側足下の丸子と塩田を結ぶ砂原峠には鎌倉道が推定され、交通の要衝であったようで五加山城は古道を監視する役目のものと考えられている。この旗塚の役割も基本的には場所からいって古道を押さえる目的のように思われる。
「信濃の山城と館」では、伝承等なくはっきりしないが、おそらく五加山城に関連して塩田城の防衛網関連のものか、東の勢力が西進して領有を誇示したとも考えられるとしている。

「小県郡誌」に五加山城は戦国の世宮沢真人時胤が拠るという。
筆者には宮沢真人時胤が分からないし、目まぐるしい戦国の世のどの辺りかわからないので調べたら加筆したい。
木曽義仲や北条氏もあり得ないとはいえないがとりあえず除外する。
戦国期の塩田側勢力としたら村上氏、対する丸子側は海野氏系、或は大井氏系、下って村上氏と武田氏、さらに下って真田氏と徳川氏系がこの地域の主な対立構造だろうか。

いくつか推考してみる。
砂原峠は立地的に依田城に近く、古くは丸子側の海野氏か依田氏(大井氏)の影響下にあって丸子側の勢力が築いたものともいえるか。
天文十年(1541)の「海野平合戦」以降は村上氏が一帯を席巻したであろうが、砂原峠に旗塚を築く必要性はあったか。
天正17年(1548)の「上田原の合戦」では、武田信玄が諏訪から大門峠を越え、砂原峠をから倉升の山に布陣したとみる説が有力であることから、この時期にも村上義清の地域支配力は安定していなかったと推測される。しかし上田原は村上方の福沢氏が塩田城にあり、敵中深く陣を取った武田軍にとっては退路確保の為にも砂原峠を確保死守したであろう。この時期なら武田の手によるともいえるか。
あとは武田氏滅亡後の混乱期に真田氏の小県支配を進めたときのものの可能性もあるか。

ただ、旗塚は尾根に東西に一列に連なっている。南は高峰がある為、北に対してのアピールとみれるのである。

砂原池の東側の獣除けの柵(写真)から登るのが近いが、筆者は海部野城から続けて行ったので帰りがここだった。

海部野城の西側斜面を下ると旗塚の山との間にある小山がある。が山頂には何もない。

小山を下ると平地があり、南側の一段下は湿地であるのか池も確認できる。小さな山だが水場があるのである。
「信濃の山城と館」に「…道がある」というのはここの事かと思われ、旗塚がここにあることから重要な道だったのではないかとある。筆者が歩いた前出の望月城砦群の旗塚(推定)と同じ印象である。旗塚は峠付近に多いのかもしれない。

「信濃の山城と館」でいうBのピーク。荒れてる。

振り返ると海部野城。

緩い斜面を降りる間もなく旗塚が出現する。
写真では判りにくいが、一定間隔で瘤状の土盛が確認できる。
10m間隔で幅2~3m高さ1mあるか無いか。

Aの頂上部には石祠。明治九年とあり祭神は不明。



A頂上部から西側尾根には4つの旗塚遺構があるそうだが、わずかに2つの盛り上がりが確認できるだけだった。
写真奥の山は独鈷山、塩田城の方向であるが、旗塚の並びの直線上であることから塩田城方面を意識したものでない事がわかる。

北西方向。
奥の山は小泉の城山でその東側一帯が上田原古戦場推定地であるが手前の山の尾根で見えない。その尾根の裏側が武田軍の布陣した倉升の山である。

北側には尾根が続くが、これが面白いかもしれない。

写真では判りにくいが、鞍部に低いが切岸らしき段差と堀切らしきものがある。

但し先端部は長方形の平地のほか遺構は見当たらない。
見晴らしは良いので物見には使われたであろう。


帰りは南側斜面を下ったが道が途中でなくなって急斜面。本来は西の竹林にも道があったものか。それでも途中に小平地もあり、足下に池が見えたりする。
旗塚に登るには平地奥の東側から筆者と同じルートがよいかもしれない。

海部野城と旗塚の連絡は道がなく不便だが、間道があったと思われる中間地点の水場を中心に両者は関連がありそうである。
旗塚は一見、畑地を作ったときの捨土や土塁の残欠と区別がつかないせいか、意識しないと気付いていも認識されないことが多いようである。実は意外なところでひっそり発見されるのを待っているのかもしれない。


2019、4月初訪

2019年4月19日金曜日

足島神社@上田市上野足島

字足島にあるため足島神社というのかと思うが、もとは諏訪社で祭神も建御名方命、八坂刀売命という。
創建、由緒ともに不明というが、ここの地名が足島というのは何かありそうである。
染谷台地には条里的遺構が残り、信濃で最初の国府が置かれたと推定されているが、その中心地とされる場所から鬼門(北東)の方にあるのが足島神社なのである。

足島と聞くと、生島大神・足島大神の二神を祀る式内社生島足島神社を思い浮かべる。
筆者は生島足島神に関しての十分な知識を持ち合せていないが、生島大神は「生みの神」、足島大神は「満たす(足らす)神」、 つまり「生く国、足る国」に通じ、生嶋巫祭神2座として宮中で祀られる重要な神という。

その足島の地名がここにあることの意味はなんであろう。足島神社は延喜式神名帳に載るような神社ではないが、延喜式以前に遡る古社の例は出早雄神社や馬脊神社などがあり、逆に式内社でありながら荒廃した神社もある。或は歴史的背景を考えると意外と起源は古いのかもしれない。
また、諏訪社であれば上社と下社があるだろうし、足島があるのだから生島地名もどこかにありそうと考えるのは素人考えであろうか。

オカルトな話のついでに蛇足だが、近くに伊勢山樋の沢地籍がある。江戸時代には東御の祢津に次ぐ歩き巫女の多い里であったようで、先出の生島巫と関連し足島神社の巫女を想起させる。

鳥居には「立梶の葉」紋。

鳥居の左側。

拝殿。

大字上野字足島にあり、もと諏訪社といい明治26年5月足島神社と改称。祭神は建御名方命、八坂刀売命で創建、由緒ともに不明である。境内社に子安社、厳島社、山祇社、天満社があり、明治6年村社となった。本社、拝殿、祝詞殿、鳥居(石造)を備え 境内513坪。参道には亭々たる巨松の並木が続いて壮観を誇っていたが、昭和23年のキテイ台風で大半を折損し、のち伐ってしまったが昔を知る人にはなつかしい思い出である。参道入口に常夜燈(明治39 年日露戦勝記念)がある。

本殿。
拝殿左側。
拝殿右側。
参道入口の常夜燈とあるのは、ずっと南の集落内の交差点脇にあるようだ。
つまり参道は300mはあろうかと思うのだが、巨松の並木が続いたという景観を想像してみたい。



2019、4月再訪

矢花の五輪塔@上田市上野矢花

 古い形を残す数基の五輪塔があり、武井家湯本家の先祖の墓との刻石がある。(神科を歩こう ―上田市神科地域文化財の現況―)

地蔵菩薩像や五輪塔の残欠が散在し、この一画は異様な雰囲気がある。
手水鉢yearsあ石臼の台座のようなものまである。上記武井家湯本家両氏の先祖の墓というがこの地域においての関りは未調査。

道を挟んだ向かいに「隧道記念碑」が建つ。
新屋堰(龍王鼻堰)の歴史と隧道開削の事情が記されている。道路拡幅により平成21年現在地に移設。(神科を歩こう ―上田市神科地域文化財の現況―)
隧道記念碑の前の小さな空地は、神科新屋の回場(まわリぱ)の跡という。葬列がそこで数回回り見送リの人びとと死者が氷劫の別れをしたという。(広報うえだ№1232)

こういった事を踏まえると、この辺りが古くから祭祀に関わる場所であったことが想像できる。


2019、4月初訪

矢花の七つ塚 @上田市上野矢花

新屋集落の北の方に11の古墳時代後期に属する円墳があり、第1号から4号墳を「新屋古墳群」、第5号から11号墳を「矢花の七つ塚古墳群」というらしい。
もとは大字上野字鴻呂館及び矢花地籍にかけて20数基があったという資料もある。

周囲広範囲には弥生後期の矢花遺跡が知られており、矢花七つ塚はこの遺跡の中央にあるのだという。
七つ塚の7基のうち3基は完全に破壊されてしまい、第6・8・9・ 11号墳がかろうじて確認できるという。6号墳は矢花の七つ塚の中心的古墳である。

「矢花の七つ塚」の北にある鴻呂館地籍の「新屋古墳群」の4基は、3基が残るが第1号墳以外はわずかに石室が確認できる程度になってしまっているという。

「矢花の七つ塚」は果樹園の中にある。西の道路脇の道祖神のところか、北の道路から入ることになる。

この地域にはもと11基の古墳があり。古墳群であったことが知られ、そのうち4基は早く全滅し、7基が残っていたので「矢花の七つ塚」と呼ばれている。 いまは第8号墳を中央にして第6号墳、第11号墳、第9号墳の4基を見ることができ、第7号墳と第10号墳はその位置が推定できるが、他はまったくわからない。 現存する古墳も墳丘の大部分が、破壊と流出により原形を知ることができないが、第6号、第8号墳に残存する巨石から定形時には規模の大きなものであったことが推察できる。古墳時代の後期(6,7世紀頃)に巨石を用いた横穴式石室をもつ円墳がこの地域に群生したことは壮観であった。神科台地に残存する条理的遺構や国府跡と推定される区域などとの関連も考えられ、当地域開発史の考察上貴重な遺跡である。

案内板が建っているところが「上田市文化財マップ」の第8号墳の写真と同じと思われ、上には石祠もある。
6号墳の西隣にあるもので、石室の一部がわずかに残っており、南北約5.2m、東西約7.1mの規模をもつものとのこと。

第8号墳のすぐ西隣の高まり。よく見ると石がゴロゴロしており古墳であろうか。
古墳であるなら、残存する4基の古墳では最も破壊が激しいという9号墳であるかもしれない。

すぐ近くにはもう一つ、それらしい形跡がある。
11号墳は天井石、奥壁、側壁の一部がわずかに残るとあるが、ここでは奥壁か側壁と思われる平石が立っているのを確認できる。これが11号墳かもしれない。

案内板の所から東のほうに見えるのが、おそらく第6号墳。
道を迂回して行くことが出来る。

ついでだが東の土手斜面を覗くと巨石がゴロゴロしている。石垣は畑の土留のものであろうが、巨石は古墳を撤去したものであるのかもしれない。

六号墳は天井石・奥壁・側壁の一部を残しているだけで、天井石が崩れているため石室の規模などは不明ですが、羨道〔せんどう〕部と玄室〔げんしつ〕をもつ横穴式の古墳です。石室の側壁に平らで大きな一枚石を用いたり、天井石も大きな河原石を使っています。使われている石材の大きさから、六号墳は矢花の七つ塚の中心的な古墳とみられます。(「上田市文化財マップ」)



2019、4月初訪

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...