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2019年12月23日月曜日

坂城神社@埴科郡坂城町大字坂城



延喜式神名帳(延長5年(927))埴科郡五座の一社に比定され、古く坂木大宮社ともいわれ、大宮の地名が今に伝わる。祭神は大己貴命。
口碑によると、第12代景行天皇40年、日本武尊が東征の際、碓氷峠から埴科の県に到来、当地日野の里、御陵が峯(五里ケ峯)の山麓で祖神を祀ったのが起源で、その後、飛鳥時代の天武天皇2年(673年)、この地で治国平天下を祈念して社殿が建立されたのが創建だという。

社伝では、諏訪明神の裔信濃国造埴科郡領などがここに集まって幣帛を捧げて治国天下を祈願して社殿を奉建したのが坂城神社の創建であるという。
天文元年❨1532❩、村上義清居城鎮守の神領として百二十貫文の社地の寄進を受けた。天文二十二年❨1553❩、武田信玄進攻による葛尾落城の際兵火にかかり焼失したが、永禄十一年❨1568❩、武田信玄が三十貫二百六十文の社領を寄進して祭祀の復興をはかった。後坂木代官長谷川安左衛門の庇護を受け万治三年❨1660❩社殿を修復し、祭器を整えた。
祭神は大己貴命・事代主命・建御名方命。❨「坂城町誌」より❩


満泉寺村上氏居館跡)門前の道が既に参道のようで、鳥居が立つ。

参道。
境内参道。
手水舎。
参道の狛犬と鳥居。

木造鬼人面、木造獅子頭、狛犬が坂城町の指定文化財になっている。

天和2年奉納された狛犬。
江戸初期の天和2年(1682)8月の建立で、寄進者は坂木に陣屋をおいていた坂木藩板倉氏の家臣石川市左衛門義孝という。

拝殿前の石灯籠。

拝殿。

拝殿に掲げられた奉納額。

本殿。

拝殿右側の境内社。
拝殿左側の境内社。
拝殿裏側の境内社。

境内の土俵。
坂城神社は雷電との縁があるらしい。


神社の裏に葛尾城の登山道がある。




2014年8月初訪
2019、10月再訪

2019年12月11日水曜日

修善寺跡@埴科郡坂城町御所沢

満泉寺のある「村上氏居館」と、御所沢にあった「満泉寺」は、天文二十二年(1553)八月に葛尾城が落城し村上義清が越後国へ落ちたとき共に焼失した。
天正十年❨1582❩「本能寺の変」で森長可が信濃を去ると、上杉氏が北信濃を領有。山浦景国(村上国清)は海津城主となり父義清時代の旧領を回復。そのとき居館跡に満泉寺を移設再建したという。

満泉寺は初め「修善寺」といった。
寺伝では、応和三年❨963❩、天台僧延昌により御所沢に創建され、初め修善寺といい、後村上氏代々の菩提寺となったという。


因みに、御所沢には北条党の薩摩氏の居館跡と伝わる「伝薩摩氏居館跡」がある。薩摩氏と修善寺との関係もあったものと思われる。
御所沢の北方、蓬平の南部に属するところは、北方に山を負い、東と西は共に小断崖になり、その奥に修善寺跡と伝承する地があって、ここは南方に開いて、東北西の三方が高地にかこまれ、鎌倉式地形に酷似している。修善寺跡と称する地は平坦て、その南端に雨落と考えられる東西に走る細溝があり、その西南一段低いところは寺の庫裡でもあった所と考えられる平地があって東北隅に古い井戸跡を残している。寺地と考えられる西南の山腹には夥しい数の五輪塔出土地があって、無慮七・八十基分の一石造りの風空輪と地輪・水輪・火輪が散在している。
或いは入田川の南に館があり、川を隔てた山際に寺があったものと推定されるので、ここ御所沢一帯が館及び附随の寺及び墓地があったものと思われる。(「坂城町誌」)

寺伝を信じるなら薩摩氏が坂城郷の地頭となるより前から在ったはずであるが、位置的に薩摩氏と無関係な筈がなく、また後の村上氏菩提寺となった経緯からも修善寺のこの地域に於ける意味がうかがえる。

「寺地と考えられる西南の山腹には夥しい数の五輪塔出土地」から集められた五輪塔が無造作に無造作に置かれている。案内板には、嵯峨地籍から出たこと、出土した一部であること、大日堂跡と経塚があったことが書かれている。
嵯峨地籍、大日堂跡と経塚がどこかはわからないが、付近であろう。
隣接する瑠璃光殿。

「南端に雨落と考えられる東西に走る細溝があり、その西南一段低いところは寺の庫裡でもあった所と考えられる平地があって東北隅に古い井戸跡を残している。」は確認できなかったが「西南一段低いところ」は写真のところか。

御所沢の修善寺跡付近には、「塔の平」、「シャガ❨志賀❩」の地名があって、「シャガ」は修善寺があったとある所で、「塔の平」には村上顕国の墓❨「村上顕国の碑」❩と村上関係家臣の墓という十基の墓石があり、村上氏の霊廟があったという。
「名将村上義清」❨水出熊雄❩によると、御所沢の修善寺跡は、もとは琴平山の奥の山上、「修善寺」から訛った言葉という「ステッチ」と呼ばれる地域から瓦の破片風のものや土器片、焼け土の塊のようなものが収集されており、寺があって焼けたと推測され、後に山麓の修善寺跡に移ったのではとし、修善寺より289年前の674年に「坂城神社」が創建されていることから、「村誌」の応和三年❨963❩、より早い創建である可能性が高く、竹鼻家系図などから15年以前は遡るのではと考察している。

西側の山が琴平山で山上には古墳のような高台があって石祠が祀祀られている。琴平山だけに金比羅社であろう。
琴平山。おそらく「ステッチ」と呼ばれるところで、修善寺跡はもとはここにあったともされる。
もとの修善寺跡かどうか筆者には判断出来ないが、琴平山はなにより見晴らしが良く、高台の北側には堀状の地形があることから、いつの時代かに見張り台であった可能性があるのではないか。

山上南側には秋葉社もある。
稲玉家氏神という石柱があった。

更に奥には琴平山奥社がある。

東側の山が塔の平で墓地となっているが、村上顕国の墓❨「村上顕国の碑」❩と村上関係家臣の墓という十基の墓石があり、村上氏の霊廟があったという。
顕国は義清の父で、佐久郡岩村田大井氏大井光照を攻め滅ぼし、佐久に侵入する甲斐武田氏と戦い、北信濃にも勢力のあった人物で、「村上顕国の碑」は修善寺を改宗し中興開基した功績を留めるべく後の満泉寺住職朝宗が宝暦十二年(1762)に建てたものという。


また「名将村上義清」では、平安末期の応和三年❨963❩創建は、村上顕清(源顕清)が寛治八年(1094)(嘉保元年)に村上郷へ配流(「尊卑分脈」)(異説あり)された年の131年前になるとし、「泉徳寺文書」(義清公御本尊縁起)に「天徳四年(960)の秋、村上天皇の第四皇子(為平新王)が当国の国司となって坂城に居られ…やがてお城の近くにお堂を建てられた」旨があり、「御所沢」の「御所」と「為平新王」の関係が注目され、「天徳四年(960)…やがてお城の近くにお堂を建てられた」の「…やがて」は、修善寺創建の応和三年❨963❩に対応するとも考察している。

坂城小学校校庭のところにあったという、「込山廃寺」が同じく平安時代とされ至近であることと、近くにあったろう為平新王のお城が気になる。

筆者は確認していないが、「更埴人名辞書」に、養和三年(1183)四月、明国は坂城御所沢に修善寺を開基とあり、村上明国の中興開基が窺え、同書に、明国は屋代に居るとも、更級郡坂城に居るともし、「屋代記」に明国坂城を知行す。「市川文書」に明国及びその子頼時坂城住とあると「名将村上義清」にはある。

しかし鎌倉期おそらく坂木郷には薩摩氏があって、建武二年(1335)に村上信貞が市河氏と坂城の薩摩氏を攻めている(「市河文書」)し、村上氏が坂城に移ったのはそれ以後、「更級郡誌」等では元中年間❨1384~1391❩以後であろうとされている。


永正元年❨1504❩、村上顕国志願に因って天台宗を曹洞宗に改宗、上州甘楽郡長楽寺三世の宝室見尊禅寺を請じて中興開山とす。❨「村誌」❩
村上顕国により改宗し禅宗満泉寺を中興開基(更埴人名辞書)とも伝わる。

義清が父顕国の法号満泉院殿にちなんで村上山満泉寺と改めた。❨「村誌」❩
天文二十二年(1553)義清の越後落ちに伴い焼失。
天正十一年❨1583❩、義清の子国清❨景国❩によって現在地、村上氏居館跡に再興した。

以上が御所沢にあった頃の「満泉寺」、すなわち「修善寺」の沿革になろうか。





2019、12月初訪

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...