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2018年5月18日金曜日

穂見神社@東御市和

大正11年に商店の神様「高尾山」神社を歓進したという。
山梨県高尾の本社「高尾山穂見神社」の祭神は保食神(うけもちのかみ)。

大屋公園(高尾山白鳥穂見神社)と呼ばれかつては桜がみごとで、たいへんにぎわい、売店も出たほどであったという。
二月三日の節分では「七福神」に扮して大屋全地区を一軒づつ練り歩き豆まきをするという。どうやら東御地籍だが大屋側の管理ということらしい。





さて、大正十一年に歓進されたという穂見神社を取り上げたのは、この辺りが中世の海野氏の家臣、深井氏の所領であったろう事からである。
深井氏に関連すると思われる屋敷跡が東深井と西深井にあるが、海野氏居館や矢立城、或は祢津城からかなり離れたこの辺りには城郭跡とされるものが知られていない。石を投げれば城館に当たるような信州でそれは不自然と思われる。
西深井居館(正村屋敷)は、後には真田信之に属した正村氏の屋敷であったというが、そこから南に一本道で1キロも離れていない立地であり、近隣で天然の要害といえる場所もないことから目を付けた。
神社は古くに何かしらがあった場所にあることが多く、ここ穂見神社も歓進される前に何かしらのものがあった可能性は高い。
付近一帯は字地十代で古代の遺跡跡という。どこかの資料で狐原というのを見たが或はこの辺りかもしれない。
また西深井集落の南一帯が字地唐沢で、「和村誌」に「白髭」という地名が下栗林の下平と西深井の南、唐沢にある。唐沢には神社があったらしい。これが白髭神社で帰化人を祭ったものである…」「白髭」と「白髭神社跡」が何処なのかが気になるところ。
そのあたりは調査不足である。
海野氏参照。
祢津(禰津)氏参照。
深井氏参照。
深井氏居館参照。
西深井居館(正村屋敷)参照。
正村氏参照。

穂見神社がAで、西深井居館(正村屋敷)とは一直線。
また深井氏居館はⅭと一直線である。
どちらも北国街道と渡し場のあった大屋を見下ろせる好位置であり、また、おそらく真田方面への古道もこの辺りにはあったはずである。

不明の祠と五輪塔の一部らしき石。
素人ゆえ確証は無いが五輪塔も古いものに見える。


拝殿周りの盛り上がった土も気になるところ。

トイレ脇。土塁なら面白いのだが整地の際の土砂っぽい。

南斜面には遊歩道のほかに面白いものはなさそう。

鳥居付近は下からの遊歩道と展望台への道が交わる。展望台からの道が旧道とした場合、本来は虎口として、くの字の形態をしていた可能性がある。

南斜面先端。ここが城砦であった場合、本来ここが登道であったろう。
前出の西深井居館に関連するならば搦め手ということになる。
写真左手は東斜面で沢谷は天然の堀となる。

もしや、この巨木が倒れて鳥居を壊したものだろうか?

社地西隅。この道を真っ直ぐ行くと西深井屋敷である。

隣。
東側斜面。中央の二本の木の辺りが穂見神社だが、この辺りから堀の形状を示している。
一帯は耕地整理された水田地帯だが、ここのみが取り残されたようである。
写真後ろの道路を挟んだ水田との段差も気になるところ。

西側の更地から見た穂見神社。
城砦であるならば西側にも堀が無くてはならないので歩いてみた。
更地付近の南斜面。
更に西端付近。祠が二基見えたが新しそうだった。
怖い。カラスが二羽いた。
西端部付近。
更地の台地西端部から。
西側斜面下は美穂ヶ池市民緑地となる。

存外、狐原というのはこの辺りかも知れない。
矢立城の項でかいたが、「…下栗林のところに狐屋敷(みはり所)もある。…」(和村誌)など、どうやら狐地名には見晴らしの良いみはり所的な意味合いがあるらしい。
台地上一面は耕地整理された田園であり、堀らしき形跡は皆無だった。
この谷から谷までは200mはある。さすがに広大すぎか。
あくまで城砦と仮定したらだが、堀状の北限の道路が北の堀。鉄塔の建つ辺りに西側面の堀があったかもしれないとは無理すぎだろうか。

穂見神社付近からみた矢立城・祢津城方面。中央に小さく見える。
深井屋敷も西深井屋敷(正村屋敷)も矢立城・祢津城や海野氏居館からはかなり遠い。
深井氏は海野氏の代官級とのことだが、与力身分でない以上は急時に拠るべき城砦があったと思うのだがどうであろう。
里でなくても、近世の開拓などで小さな遺構は簡単に失われてしまい、今もなおそれはつづいている。

「和村誌」(1959)「上深井村田畑惣貫之御帳 承応三年 (1654)松尾家文書」より深井地域の小字を引用しておく。
「かご田 ・うしろ村・竹ノわき ・よこしい ・さぎ坂・宮ノわき ・屋つく路 ・東うら・屋しき・ 宮ノ下・ くね下 ・見みう ・若宮・かぢばた ・くぼ ・宮ノまい ・道六神 ・さわ ・ぜにいい ・清水 ・木下 ・中島・ほリノ内 ・なめし ・清水尻 ・東沢・ひがし畠 ・いまい ・次郎五・山道 ・こひとう ・穴水 ・道下・ くねぎわ ・ばんば ・だいもん ・そり ・白ひげ ・ふたい ・そり田・ひかげ ・石はら ・白ふち ・ほそはた ・まい ・から沢・びやつた ・はば下・せき下 ・つかはた ・法のはた ・くねそへ ・西畑・金井 ・かしはた ・ほりや敷 ・とうかいと い・つなめん ・くぼう道下・屋けほまち ・あいかわた」

今回の調査は的外れであるかも知れないが、何かしら後考のきっかけにでもなればとおもう。
太平寺城(海野館)参照。
祢津城参照。

2018、5月初訪

深井氏居館(堀の内)@東御市和

「東部町誌」に深井堀之内とあるのがそうである。
東深井の集落より少し南に離れており、西へ行くと西深井集落で西深井居館(正村屋敷)がある。東は曽根で海野氏菩提寺の興善寺がある。
深井氏は海野氏の一族で深井郷を所領し、海野本郷と現青木村の代官でもあった海野氏の重鎮である。
深井氏参照。
海野氏参照。

道路左が深井氏居館跡。かつては堀で囲まれていたと推測される。

南側。ここにも堀が回っていたであろう。
出丸的に突き出たところが実に憎い。

北東隅の辺り。
北の道路。右が居館跡。
かつては北面にも堀があったというが、居館跡は道路より低いので敷地内に在ったものだろうか。


西側の堀跡。
見事に残っている。すばらしい。

南西隅辺り。
雰囲気はすごくあるが、民家なのでね。
現在でも深井氏の御子孫の方がお住いになっているそう。



ここでは蛇足だが「歴史は語る東深井區誌」(昭和49年)より東深井区の戸数を拾ってみた。
深井24、堀17、押金8、竹内3、中村2、松尾2、中村2、宮下2、温水1、白倉1、宮坂1、清水1、新井1、山田1、平尾1、関1、小林1、唐沢1

「和村誌」(1959)「上深井村田畑惣貫之御帳 承応三年 (1654)松尾家文書」より深井地域の小字を引用しておく。
「かご田 ・うしろ村・竹ノわき ・よこしい ・さぎ坂・宮ノわき ・屋つく路 ・東うら・屋しき・ 宮ノ下・ くね下 ・見みう ・若宮・かぢばた ・くぼ ・宮ノまい ・道六神 ・さわ ・ぜにいい ・清水 ・木下 ・中島・ほリノ内 ・なめし ・清水尻 ・東沢・ひがし畠 ・いまい ・次郎五・山道 ・こひとう ・穴水 ・道下・ くねぎわ ・ばんば ・だいもん ・そり ・白ひげ ・ふたい ・そり田・ひかげ ・石はら ・白ふち ・ほそはた ・まい ・から沢・びやつた ・はば下・せき下 ・つかはた ・法のはた ・くねそへ ・西畑・金井 ・かしはた ・ほりや敷 ・とうかいと い・つなめん ・くぼう道下・屋けほまち ・あいかわた」


また穂見神社で一考したと同じようなものを記しておく。
深井氏居館を南に行くと、Ⅽの場所で台地を下り大屋に至る。
中世の小街道の幾つかは深井郷を抜け真田方面に向かっていたと思うのだが、根拠が無いながらABⅭ地点には、地勢的に何かしらの施設が在ったのではと推測している。
未だⅭの場所は探索出来ていないので、ここではB地点を歩いた写真を二三上げておく。

この細道の左上が気になるB地点。
「和村誌」にある「白髭という地名が下栗林の下平と西深井の南、唐沢にある。唐沢には神社があったらしい。これが白髭神社で帰化人を祭ったものである…」が穂見神社である気はするのだが、一帯が字地唐沢と思われるので或はこの場所か。そのあたりは調査不足である。
南側から見ると饅頭型。山城の主郭と似た印象を受けるが古墳の可能性もある。
実際にはかなり広く、畑地となっていた。
この先の北側は緩やかな果樹園となる。堀跡らしきものは確認できなかった。
西斜面。南側斜面も同じような笹藪である。
南側斜面。
この辺りでは少々小高くなった場所であり、台地上の深井と下の大屋・岩下を繋ぐ小道が通る際である。
どうであろう。物的根拠がない以上やはり無理があるだろうか。

2018、5月初訪

西深井居館(正村屋敷)@東御市和

もとは海野氏の家臣、深井氏に関するものと思われるが、のちに真田信之に属したという正村氏の屋敷という。 
正村氏についてはし海野氏滅亡後、或は真田氏の支配権がこの辺りに及んだ頃に入ったものとみられるが、史料が無くはっきりしないという。何れじっくり取り組んでみたい。
正村氏参照。
真田氏参照。
深井氏に関しては東深井に深井氏居館跡がある。
海野氏参照。
深井氏参照。
深井氏居館参照。

東側から見た写真。
左奥に祠の屋根が見える。祠は土塁上に築かれておりその向こう側が土塁に囲まれた屋敷地との事である。
写真の青いネットに囲まれた畑地は「信州の山城と館」等では遺構に含めない扱いのようである。

西深井居館と住吉神社。
分断する道路は一見堀の跡に見える。中世にこの道が無かったのなら神社裏の小高い墓地まで細長い段上の地続きとなっていたのか。
ここでは関係ないが、遠くの山は村上連珠砦郡がありその向こうは村上氏の本拠坂城町である。
住吉神社は大正の頃に勧請されたらしい。
御祭神は住吉三神、底筒男命・中筒男命・上筒男命という。
この裏は墓地となる。

祠は中心付近にあり。住宅の敷地らしいのでこれ以上は近寄れなかった。
正村氏の氏神が祀られる祠という。遠目だが土塁際の切れ目は堀の名残だろうか。
居館内部は1m弱の石垣土塁が取り巻くという。
また祠付近を古井戸とする資料もある。その場合、土塁上に井戸はおかしいので実は土塁ではない可能性もあり、青い畑も屋敷地であった可能性もありそうだ。
入口はこの方向にあるらしい。

西側から見た祠の建つ土塁。
手前は崩された土塁跡と思われるが、かなりの幅である。
居館内。石垣土塁の遠目に判る。

北西の土塁端部。本来はここで内側に折れたものだろうが、真っ直ぐ延長するようにも見える。
一本木の辺りは若干低いようなので、こちら側にも堀があったろうか。

西側隅の土塁跡と思われる遺構。

西から見た住吉神社。

北から畑越しに見た西深井居館。

西深井居館付近から見た矢立城・祢津城方面。
中央のちょこんと見える饅頭型が祢津下の城。

西深井居館(正村屋敷)は、ぐるりと周回するだけでも見ごたえあり。
機会があれば祠のある土塁をしっかりと拝見したいものである。



ここより南に穂見神社がある。
一帯は字地十代で古代の遺跡跡という。狐原というのはこの辺りかもしれない。
また西深井集落の南一帯が字地唐沢で、「和村誌」に「白髭」という地名が…西深井の南、唐沢にある。唐沢には神社があったらしい。これが白髭神社で帰化人を祭ったものである…」「白髭」と「白髭神社跡」が何処なのかが気になるところ。

ここで「和村誌」(1959)「上深井村田畑惣貫之御帳 承応三年 (1654)松尾家文書」より深井地域の小字を引用しておく。
「かご田 ・うしろ村・竹ノわき ・よこしい ・さぎ坂・宮ノわき ・屋つく路 ・東うら・屋しき・ 宮ノ下・ くね下 ・見みう ・若宮・かぢばた ・くぼ ・宮ノまい ・道六神 ・さわ ・ぜにいい ・清水 ・木下 ・中島・ほリノ内 ・なめし ・清水尻 ・東沢・ひがし畠 ・いまい ・次郎五・山道 ・こひとう ・穴水 ・道下・ くねぎわ ・ばんば ・だいもん ・そり ・白ひげ ・ふたい ・そり田・ひかげ ・石はら ・白ふち ・ほそはた ・まい ・から沢・びやつた ・はば下・せき下 ・つかはた ・法のはた ・くねそへ ・西畑・金井 ・かしはた ・ほりや敷 ・とうかいと い・つなめん ・くぼう道下・屋けほまち ・あいかわた」


穂見神社自体は大正11年に勧進されたものらしいが、台地の端に位置し防衛にも見張りにも適しているため何かしらの施設があった可能性もありそうだ。

2018、5月初訪

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...