2020年1月31日金曜日

塔の峯五輪塔群@小諸市大字滝原

滝原の塔の峯には、室町時代のものと思われる145基の五輪塔が残されており、「遍照寺」があったと伝えられている。

塔の峯五輪塔群(とうのみねごりんとうぐん)
 市史跡(昭和52年5月10日指定)
 古く、この地に遍照寺があったが、落雷により焼失し、本堂を諸の地に移したという言い伝えが残されている。地元では、ここを「弘法さま」と呼んでいる。
 総計145基の五輪塔(地輪を欠くものを含む)が残されており、材質は安山岩であり、他に浮石(軽石)製のものが2基ある。このほか、多層塔4基、多宝塔2基がある。
 数多い五輪塔の火輪・水輪の特徴から、室町時代のもので様式の変化が少ないことから短い期間に製作されたことがうかがわれる。 これらの石造物から時代が下り、干支で癸亥秋九月と記名のある弘法大師線刻像碑がある。地割の跡は認められないが、寺院に関係のある京(経)塚、仁王畑、鐘堂、堂庭と呼ばれる地籍があること、数多い五輪塔群から室町時代に寺院が存在した可能性が高い。
 小諸市教育委員会


小諸市六供の成就寺の伝承では、平安初期の天長五年(828)弘法大師空海が滝原に遍照寺を開基したのがはじめで、後に落雷により遍照寺は焼失、焼失を免れた本尊は末寺円命寺に移されたとしている。
さらに室町時代の長享元年(1487)大井伊賀守光忠が鍋蓋城を築き、明応年間(1492~1501)の頃に鬼門除けとして観音堂及び当山(成就寺)を建て、永正元年(1504)に祈願寺として本尊を円命寺より移して寺号を「城に就く寺」即ち「城就寺」と改め、江戸時代の元禄4年に「成就寺」に改称したという。

「弘法さま」と呼ばれることから真言宗の寺が想像でき、塔の峯の地名も寺に関わるものかもしれないが、弘法大師(空海)が開いたかは疑問。因みに弘法大師には鉄に関わる伝説も多い。
末寺円命寺がどこかわからないが、素直に焼失した本堂を移した諸とみたい。
五輪塔群が室町時代と推定されることから室町期に寺が存在したと考えられているが、旦那や庇護者について追及した記述に筆者は今のところ出会っていない。
地割の跡も認められないとのことだが、京(経)塚、仁王畑、鐘堂、堂庭と呼ばれる地籍があるとのことで、それなりの歴史と規模の寺院が考えられそうである。
根拠はなく乱暴かもしれないが、古く滋野一族の勢力を考えるにその関係氏族、近くでは小室氏がおり小室太郎光兼が木曽義仲の下活躍しているし、系が不明ながら大室氏もある。後には大室に入った大井氏などとの関係が考えられるかもしれない。


総計145基という五輪塔。

弘法大師線刻像碑。

五輪塔群とその付近。
周辺のどこかに遍照寺があったのかもしれない。


400mほど南にある馬頭観世音塔。
古い街道が深沢川対岸に通ずるところで、交通の要所であったろうことは、すぐ対岸に祢津氏勢力の「刈屋城❨三宅城❩」があることから知れるが、滝原には相対する城館が見当たらない。
深沢川を挟んだ対岸勢力が敵対勢力なら、なにかしらの施設が存在した可能性を考えるのが自然だと思われる。
おそらく、当初は対岸勢力を警戒する必要がなかったものが、ある時期に祢津氏側勢力が刈屋城や旦田城を深沢川岸に築いたもののように思われる。祢津氏の警戒する勢力は大井氏であろう。
それまでの滝原の勢力が小室氏であったかはわからないが、祢津氏とは友好的な勢力、滋野一族が考えられそうである。

少し上流「刈屋城」の至近に「旦田城」があり、遍照寺跡が相対した位置にあることは面白い。




2020、1月初訪

2020年1月30日木曜日

駒形城(駒形神社)@佐久市塚原上塚原

塚原の台地縁部、「駒形神社」が祀られる所が「駒形城」である。
沢の谷に挟まれたような要害の地形で、土塁と堀跡が遺構として残されている。
城に関する史料は無いが「耳取城」の大井氏または「道本城」の根井氏との関連が指摘されている。

塩名田から塚原の台地上を通る中山道筋にあたり、古くから開けた所であったらしい。
 鎌倉時代には「道本城」の根井氏の私牧が営まれたと考えられ、駒形神社との関係が示唆される。
根井氏は望月牧を運営する望月氏の一族で、千曲川対岸の矢嶋ヶ原でもやはり望月氏一族である矢嶋(八嶋)氏が牧を運営するなど望月氏の勢力があったようで、1k程南の鳴瀬に「落合城」があるが、道本城主根井行親の五男である落合氏が支配した所とされていることからも、やはり根井氏との関連が考えられる。

根井光親は木曾義仲の入洛に従い義仲四天王といわれている。
宇治川・粟津の戦い(1184)で源頼朝方に敗れると多くの信濃武士は鎌倉幕府の御家人となったようで、本家望月氏も所領を残しているが根井氏は滅亡したものか。

承久の乱(1221)の功で大井庄を賜ったとされる小笠原長清の子朝光が大井氏を称し、その子大井光長には7人の男子がいて四郎行氏が耳取に入ったものらしく、その耳取大井氏が最初に構えた館が「五領大井館」と考えられ、寛元年間(1243-1245)の構築という。

文明十八年(1486)耳取城城主の大井政継が駒形神社を再興したと伝わることや、下塚原に耳取城の監視所的な役割をしたと思われる「下塚原屋敷」があったらしいことから、耳取大井氏の勢力圏であった時期があったことは間違いないと思われる。


駒形神社社殿の裏手と境内東側に土塁跡が確認できる。
北側の処理場のあるところの低地は元は深かったと思われ、南側の切れ込んだ谷を利用した堀切があってもよいと思われる(A)の地形が東側にある。

南側の駒形神社入口。奥に橋がある。
説明文
駒形神社の創立については記録に乏しく明らかではないがこの地方は、いわゆる信濃牧の地であり、祭神には騎乗の男女二神像を安置しているので牧に関連した神社と推定されている。
昭和二十四年五月三十日国宝保存法により国宝の指定を受けたが、文化財保護法の施行により現在は重要文化財に指定されている。
再建は文明十八年(1486)と伝えられているが形式手法からみてもその頃の建物と考えられている。
(以下略)

石段脇。
石段。
鳥居。
子宝の神様だとか。なるほど。
鳥居横高まりも土塁跡と思われ、境内東側の土塁に続いている。

祭神は騎乗の男女二神像で本殿は室町時代のもので国の重要文化財に指定されている。
宇気母智命(うけもちのみこと)を祀り、文明十八年(1486)佐久郡の耳取城城主・大井政継が再興したと伝わる。
「駒形神社」は各地にあり牧場に関係があるとされているが、「高麗神社」であり高麗の帰化人たちが祀った神という説もある。どちらにせよ、馬牧や製鉄などは渡来系文化で帰化人たちはそのプロフェッショナルであるのでそう矛盾しない。

社殿裏の石祠。土塁跡も確認できる。

土塁跡は境内東側にしっかり確認できる。
土塁の裏は堀跡遺構。
離れたところの石祠。

南側の切れ込んだ谷。
北側の処理場のあるところ
東側にある(A)の地形。





2019、9月初訪

2020年1月28日火曜日

五領大井館@小諸市大字耳取五領

寛元年間❨1243~1245❩頃、大井又太郎光長の四男、又三郎行氏が耳取に居館して周辺地域を領知したとされており、その耳取大井氏の最初の居館の場所が五領❨五霊❩と考えられている。
その後の戦乱期に入って防御上の理由から耳取城を築いて移ったと考えられている。

大井氏又太郎光長のとき、所領をそれぞれ子供たちに分与して領知させた。
嫡男が小諸市の大室、次男が長瀞❨長土呂❩、三男三郎行光が宗家の岩村田、四男の行氏が耳取、五男が森山、六男が平原に入って大井庄を治めたという。
このなかで、江戸時代まで家名を存続したのは耳取大井氏のみという。
ただし、後の耳取城主大井政継は平賀玄信(大井成頼)の孫(『大井小笠原流系図』)で耳取城を攻めとって耳取城(鷹取城)主となるという(Wikipedia)。つまり玄信平賀氏を継いだ岩村田大井氏の一族で、父大井康光は岩村田大井宗家の跡を継いだ長窪大井氏の出であるなど四郎行氏の系ではなくなっているようである。
どちらにせよ世系の維持は大変なことらしい。

ここは、そんな鎌倉時代の貴重な居館跡とされている。

千曲川の右岸段丘の中段になり、現在は畑地だが低い石積に囲まれた一画が館跡らしい。
「信濃の山城と館」には周辺には湧水もあり、北側には一段高い所があって、その辺りを中心に館が営まれ、この段丘上に緒士の屋敷や村落になっていたものとおもわれるとある。

現在、すぐ北側には道路が通り館東側の台地をも大きく削っており、従来とは大分様子が変わっているようである。
その東側台地続きの南には五領城があり、五領館の詰めの砦と考えられている。

方形の微高地が推定地。

北方300mのところには旧耳取神社跡と700mほどのところには伝万福寺跡❨玄江院のもと❩、南には五領城がある。
現在は裏の段丘上に農地が広がるが、従来はこの段丘に農地が開拓されていたようである。初期の耳取大井氏はこの五領館から周辺を統治したのであろう。
中山道の通る塩名田には、従来にも千曲川の渡しがあったであろうことは対岸に御馬寄城があることからも、交通の要衝であったことが推測される。
南1kmのところには駒形城(駒形神社)があり耳取城主大井政継再興と伝わるが、五領大井館時代に領知していたかどうかはわからない。



2019、11月初訪

五領城@佐久市塩名田

寛元年間❨1243~1245❩頃、大井又太郎光長の四男、又三郎行氏が耳取に居館して周辺地域を領知したとされており、その耳取大井氏の最初の居館の場所が五領❨五霊❩大井館と考えられ、五領城はその詰めの砦と考えられている。
大井氏又太郎光長のとき、所領をそれぞれ子供たちに分与して領知させた。
嫡男が小諸市の大室、次男が長瀞❨長土呂❩、三男三郎行光が宗家の岩村田、四男が耳取、五男が森山、六男が平原に入って大井庄を治めたという。

その後の戦乱期に入って防御上の理由から耳取城を築いて移ったと考えられている。

初期の耳取大井氏はこの五領館から周辺を統治した。中山道の通る塩名田には、従来にも千曲川の渡しがあったであろうことは対岸に御馬寄城があることからも、交通の要衝であったことが推測される。
南1kmのところには駒形城(駒形神社)があり耳取城主大井政継再興と伝わるが、五領大井館時代に領知していたかどうかはわからない。しかし砦程度の備えは欲しいだろうし、北にも宮ノ前辺りに見張り場があってもいい。

中山道の通る塩名田の北方台地の突端を堀切って築かれている。
南側は崖で侵入は難しい。北側は沢の谷地形となっているが比高が低いので要害性は低そうである。東側は二本の堀切で台地と区切っているが、台地側は整地され元々の地形がわからなくなっている。
台地続き北のすぐ下には大井館があったとされているので、台地上には他にも何かしらの施設があったかもしれない。


北側の沢。
沢から見上げた五領城。

沢の上部から、(ウ)の堀切が見える。
(ウ)の堀切。
(ウ)の堀切と(2)の郭の高台にある石祠。
(2)の郭。
(イ)の堀切と奥は(1)の郭。
ここから先は笹藪で入っていない。「信濃の山城と館」には(1)の郭の先には(ア)の堀切と(3)の郭が記されている。
(3)の郭へは西先端の墓地から行けるかとも思ったが、ちょっとした急斜面であった。
西先端の墓地にある石祠。

台地上から五領城を見る。
沢の北側の台地上は大井館の後背になる。
現在は道路が貫通している。




2019、11月初訪

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...