春の枝垂桜は見事という。 |
竜田山耕雲寺といい上田市伊勢山の陽泰寺末寺であった。本尊は釈迦牟尼仏、脇侍は文殊、普賢二菩薩。ほかに迦葉、阿難二尊者、十六羅漢。
天文二十二年❨1553❩、甲斐国青野村の耕雲寺の僧厳松乾巨が開いたという。江戸初期まで町横尾にあったが、新地、鼠宿両村が松代藩に編入された寛文年中❨1666年頃❩現在の新地に移った。
武田信玄、勝頼の帰依が篤く、寺名は信玄によるものといわれ、天正八年❨1580❩、勝頼は耕雲寺に朱印地を寄せて寺領とし、祠堂銭を取ることと、門前の三軒の新造在家には普請役を免除するなど積極的な保護を加えた。
勝頼の朱印状を下附した安部加賀守は武田信玄の家臣で、葛尾落城後、日名沢にあって坂城御料所の代官となった安部勝宝である。
慶長九年❨1604❩年、川中島の領主松平忠輝が、高三石九斗八合、面積約一町四畝の寺領を寄進した。新地への転寺後の寛政十二年❨1800❩耕雲寺十三世禅英のとき堂宇の再建をなし現在に至っている。
耕雲寺の住職往海玄古が元和年間❨1615~1624❩、薩摩より国分煙草の種をとりよせ栽培したのが特産玄古煙草のはじまりである。煙草栽培は近隣に広がったが、とくに、横尾・金井・中之条・御所沢・南日名・北日名の六郷に最も適し、寛文十一年年❨1671❩横尾村では年貢の五十七パーセントは煙草で上納したほどである。❨「坂城町誌」❩
天文二十二年❨1553❩村上義清の越後落ち後の武田支配に関り、真田氏の所領砥石城下にある陽泰寺の末寺となった経緯がありそうだが不明。
東に芝峠を越えると真田町傍陽だが、曲尾氏の居た大庭には同名の耕雲寺があり、隣接して横尾氏の居た横尾の地名があるのはただの偶然だろうか。
坂城御料所の代官となった安部加賀守(勝宝)は他にも文書が確認できる人物で、最後まで勝頼に付き従い、天目山において勝頼に殉じたと言われている。
甲斐国青野村は検索にかからない。耕雲寺は山梨市牧丘町牧平にあるが青野村の耕雲寺かは調べていない。
江戸初期まで町横尾にあったという場所の記述がないが、町横尾ミニ公園か、東の方の墓地付近か。
町横尾には「玄古の墓」がある。
また町横尾ミニ公園近くには耕雲寺住職「往海玄古の碑」があり「玄古たばこ」の元祖を伝えている。
「往海玄古の碑」
参道は約150mにわたる杉並木。
かつて100余本あったといい、中には樹齢300年のものもあるという。
山門。大根?
本堂。
鐘楼。
境内。
2019、12月初訪
0 件のコメント:
コメントを投稿