薩摩氏が坂城郷の地頭職であったことは、嘉暦四年❨1329❩の北条高時の諏訪社御頭結番下知状に依って明らかであり、それが工藤祐教の子祐長にはじまるかと考えられ、祐長の歿後、坂城北条は祐長の子八郎祐氏に、同じく南条は十郎祐広に分与されたことは工藤二階堂系図によって知られる。また、市河文書の建武二年❨1335❩九月二十三日の市河経助軍忠状によって薩摩氏が坂城郷の地頭であったことが裏書されるがその居館については明らかにすることはむずかしい。
坂城町内で薩摩氏の居所と考えられるところの一は御所沢である。田町の東方に登城口・鍛治裏の小字、御所沢には鎌倉・嵯峨・下木戸などの小字を残しているが、何れも館に因んだ字名である点が注目される。鎌倉は御所沢区の中央を西流する入田川の南にあって、今は葡萄園や畑地になっているが、南には堀跡と考えられる凹地が南北に続き、北の入田川の南岸に土塁の跡と思われるところがあり、その北の入田川両岸はかなり広まり、かつ人為的に掘り広めたごとき形跡が判然としている。
御所沢の北方、蓬平の南部に属するところは、北方に山を負い、東と西は共に小断崖になり、その奥に修善寺跡と伝承する地があって、ここは南方ね開いて、東北西の三方が高地にかこまれ、鎌倉式地形に酷似している。
或いは入田川の南に館があり、川を隔てた山際に寺があったものと推定されるので、ここ御所沢一帯が館及び附随の寺及び墓地があったものと思われる。❨「坂城町誌」より❩
「…入田川の南岸に土塁の跡と思われるところがあり、その北の入田川両岸はかなり広まり、かつ人為的に掘り広めたごとき形跡…」はここと思われる。
写真三枚目の中央奥が土塁状で石祠が建ち、入田川がそこで折れている。
「…南には堀跡と考えられる凹地が南北に続き…」がどこかわからない。
写真の凹地は南に葡萄園を経たところだが、東西に続くものであるし入田川土塁跡から200m程も離れている。
また南の葡萄園内にも土塁と思われている石積みがあるが、これらをひとつの居館遺構とするには無理があるか。
伝承によると鎌倉時代の地頭職であった薩摩氏の遺跡に位置づけられ、周辺には鎌倉・嵯峨・ 下木戸など館に関連のある地名が多く存在し、堀や土塁と思われる痕跡が残っている。また、北方には修善寺跡の伝承地があり、一帯は鎌倉式地形に酷似している。
昭和20年代に小屋建設の際に宋銭、明銭が数十枚まとまって採集されており、採集された宮沢義茂氏所有の宋銭では、嘉祐通宝 (1056)がもっとも古く元祐通宝 (1086)が最も新しいので、薩摩氏の居住したと思われる年代と合うが、明銭については洪武通宝 (1368) が古く、宣徳通宝 (1426)が新しいため、鋳造年代より薩摩氏以後に居住したと考えられる村上氏と関係があると思われる。(「長野県埴科郡坂城町 町内遺跡発掘調査報告書 1994年3月30日」坂城町教育委員会)
この平成6年5月に遺跡範囲確認調査では、土塁と思われる石積みの西側に位置し、居館跡伝承地の外側をトレンチ調査しているが、居館跡に関連する遺構・遺物の存在は確認できなかったようである。
また、伝承地の外側と言っているので、教育委員会では東側の石積みよりさらに東側に居館跡を想定しているようでもある。
南西から見た。
試掘トレンチ設定図には4ヶ所の石積みが記されている。
そのうち南側の石積みは至近に確認できる。他は畑地所有者に許可を頂かないと近寄れないようだが、遠目でも確認はできる。
「坂城町誌」のいうところでは、入田川を北の堀と位置づけているようで、居館跡を当時の標準的な100m四方とした場合に1994年の発掘調査は確かに居館跡推定地の外側になるのかもしれない。
伝薩摩氏居館跡と修善寺跡付近図。
北には琴平山と修善寺跡地方面。写真は発掘調査場所付近で、ここからは遠く見えるが、入田川からだと修善寺跡は目と鼻の先である。「坂城町誌」にあるように、入田川の南に館があり、川を隔てた山際に寺があったものと推定される。
遺跡が薩摩氏の居館跡である保証はないが、修善寺跡との関係は無視できない。
祐長と北条を分与された八郎祐氏の居館は仮にここで良いとして、南条を分与された十郎祐広の居館はどこであったろう。それを言及した資料を知らないが、横尾の観音坂城や金井内畝の居館跡が考えられるかもしれない。
2019、12月初訪
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