2019年12月22日日曜日

會地早雄神社@埴科郡坂城町鼠

会地早雄神社(おうじはやおじんじゃ)。別名「ねずみ神社」。

社記には景行天皇四十年日本武尊勅を奉じ東夷征伐の帰途、上毛から碓氷を越え、埴科の県にあって日既に暮れ、依て埴生の穂屋ね宿った際、群鼠荒び尊神籬を立て国造大己貴命の国の鎮とした。また、熊野皇大神は天武天皇の白鳳四年秋、諸国暴風があっため、国中に熊野皇大神を祭祀した。本社はそのひとつであるという。
祭神、会地早雄命
境内末社、熊野皇大神、鼠大明神、琴平神社、白鳥大神。
❨「坂城町誌」❩

伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊弉冉尊(いざなみのみこと)泉津事解男命(よもつことさかのうのみこと)速玉男命(はやたまのおのみこと)大穴持命
鼠宿村、新地村の産上神たり合殿、大穴持命は鼠大神と称し、千曲川の傍に鎮座の処寛保2年洪水の節社地流水につき当社へ合併。寛政6年正月吉田家へ願い社合の許可を受。万葉歌碑がある。天平勝宝7(755)年2月16日。防人の作「知波夜布留賀美乃美佐賀尓怒佐麻都里伊波負伊能知波意毛知々我多米」(「長野県神社庁」)


いまいち社記の意味が釈然としないが、日本武尊に象徴されるヤマト政権の東夷征伐の際、この地の反発する豪族ら❨群鼠❩を鎮圧、或は懐柔し、国の鎮として垣根を立てたのが神社のはじまりであると取れる。
国造大己貴命の国の鎮がよくわからないが、大己貴命の国、或は大己貴命を鎮としたのは群鼠が出雲系の者達であった可能性がある。それは大穴持命(大己貴命)は鼠大神と称しというし、この地域の伝説に「鼠と唐猫」のはなしがある。その鼠が鼠大明神として、はじめ上田市半過の岩鼻の穴に祀られたといい、唐猫は篠ノ井に軻良根古神社として祀られたという。軻良根古神社は帰化人を祀ったものと考えられ、ヤマト政権の下で出雲系の豪族らを鎮圧したというはなしが社記から想像出来る。

天武天皇の白鳳四年に当地には熊野皇大神社が祀られたが、拝殿背後の磐座からもおそらく虚空蔵山一帯にわたる山岳信仰を想起させる。
そして景行天皇四十年のとき、半過には既に鼠大明神が祀られていたが、江戸中期の寛保2年(1742)「戌の満水」で流失しここに合併された。
寛政6年(1794)に社合の許可を受。が社号のことか合併のことかわからないが、社号のことであるなら、このときから「会地早雄神社」と称したことになる。


[現代訳] 善光寺道名所図会 巻之四(1849年嘉永2年)
鼠大明神鎮座由来会地の関の記みすずかる信濃の国に会地の関というところがある。東には峨々たる岩山がそびえ、西には緑濃く松樹が茂り、高く募り出している。麓には千曲の流れがみなぎって北越地方に流れている。埴科・更級・小県の3郡が結び合う地で吾妻から越後に通ずる道が続き、行きも帰りも、知るも知らぬも逢う地なので、会地の関という。むかし、日本武尊が東夷征伐のときに、この地で夜を迎え、大伴の健日連公に命じて、草を刈りはらい、仮の宮を造り泊まった。夜は月が明るく、東に嶮しい厳石が覆っているのを寝ずに見んとの御詞があり、自身で御幣を立て、大己貴命を勧請し、鼠大明神をあがめまつった。これによって、鼠さえ物をそこなうという災いを鎮め、そのうえに蚕養を守った。
〔中略〕熊野権現がこの会地に出現し、出速男神ともいう。したがって、会地早雄神社と称し、4座の神がこの殿にいる。この会地の関は昔から言い伝えられた名所で、いろいろな書に紹介されていますが、いつのころからか、なおざりにされるようになりました。そこで、今回は多くの人にこの名所を知ってもらうために上梓しました。


「異界歴程」❨前田速夫❩に、この場所はもとは村上一族である出浦対馬守の屋敷であったようで、境内のはずれには五輪塔があるとある。
また、滝沢公庵の「当村古事記」という小冊子があるらしく、そこに、鼠宿の称は鼠大明神からきていること、鼠大明神は網掛村の舟を渡り会地に出る道の側、当時金井村と堺の見通し川原の辺にて、社地一町四方もあり、寛保二戌年❨1742❩八月の満水で流失し現地に移したとある。
また、元から小社と稲荷明神の小社と並んであり、天明八申年❨1788❩熊野三社権現と同殿にまつり、四社同殿で、寛政五丑年❨1793❩社号を会地早雄神社としたといった旨があるらしい。
「五輪塔」は確認していない。「見通し川原」がどこかはわからない。

無論これら伝承はあくまで伝承で検証が必要である。
ところで「ねずみ」は「不寝見」で、見張りや監視からのものであるという説がある。
神社の横には江戸時代に松代藩の鼠宿口留番所があって、寝ずの番もしたであろうが、もっと遡って中世の狼煙台とされる和合城に関わると考えられる。或いは更に坂木の地名から柵城の説にまで遡るかもしれない。
そして、そこに「群鼠」や「大鼠と唐猫」と古の伝承、伝説が絡んでくるのはなんの偶然であろうか。



上田と坂城の境、岩鼻の絶壁の西側、国道18号沿いにあって、江戸期の北国街道の難所
「六寸街道の切通し」に神社裏から通じるようである。
岩鼻の絶壁の上は中世の和合城で村上氏に関わるものである。

太鼓橋。建立は享和元年(1801)という。

万葉歌碑と芭蕉句碑。
万葉歌碑は滝沢公庵により文政8年(1825)に、芭蕉句碑は明治24年(1891)建立されたという。

太鼓橋を過ぎて鳥居の前に祠がある。
金の字が目を引くが金刀比羅社か。

鳥居。

鳥居脇にはケヤキの古木と石碑。

拝殿。

本殿。

本殿背後の磐座は山岳信仰を想起させる。

奥の方には会地稲荷神社がある。

奥の山は和合城
鼠地名との関わりが考えられる。


大晦日から元旦には、新地・鼠宿の両神楽による雄獅子と雌獅子の舞が奉納されるという。

2019、12月初訪

0 件のコメント:

コメントを投稿

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...