ラベル 八幡神社 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 八幡神社 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年3月14日土曜日

紺屋町八幡宮@上田市中央西

「八幡神社縁起」
祭神: 応神天皇、神巧皇后、仲哀天皇、玉依姫命
勧請の年月日は不詳であるが、真田安房守昌幸が天正12年(西暦1584年)上田城築城にあたり鎮護のために、東御市の八幡神社(現:滋野神社)を現在の地へ移したと伝えられている。真田氏のあと、上田藩主となった仙石氏・松平氏の崇敬篤く、藩主自らの参拝、社殿の修築再建などは藩の費用で行われた。松平氏のころ、弓矢の神と崇めて、毎年正月三日の射初式のとき金小的に当てた者は、十四日の宵祭りと翌十五日未明のその的と矢を奉納することを例として幕末まで続けられていた。なお、旱魃(かんばつ)の年には、大星神社、大宮神社と当八幡神社の三社合同で雨乞い祈願を行った。最近発見された白鷹・黒鷹の大絵馬は上田藩主仙石政明の献上になる上田市の文化財で東信地方で最大である。その他絵馬三つ、狛犬、棟札なども文化財である。


元々は現在の東御市の和字海善寺にあった。
創立は未詳だが、滋野氏代々の産土神で八幡大神を祭って「八幡宮」といい、天延年間(974~976)に海野幸恒が再建と伝承されている。
天正十二年(1584)真田昌幸が上田城築城の際に移されたが、元の海善寺でも「八幡宮」といっていたようで明治十三年に八幡宮から「滋野神社」と改称している。

海野氏の氏神であるという「八幡宮」を上田城下に移したのは、真田氏が海野一族の嫡流を主張することから一応納得がいくか。
また、天正十一年に(1583)真田昌幸が上田城下に移した鬼門鎮護の寺「海善寺(開善寺)」(現在の「海禅寺」)は、東御市「滋野神社」東側に隣接する「廃海善寺跡」が移されたものである。
「廃海善寺」は海野氏の祈願寺であったというので、やはり海野氏にゆかりがある。

参道と鳥居。

手水舎。

拝殿。
説明板。

本殿。

境内。

境内社。
「兜石八幡宮」とある。
不明。
不明。
不明。

石祠。


参道南の国道18号交差点の石碑。
参道南の矢出沢川の橋。
上田城は矢出沢川を天然の外堀であった。八幡宮の置かれた位置の厳密な理由はわからないが、鬼門の方角である為とされている。



2020、3月初訪

2020年3月13日金曜日

海善寺の滋野神社@東御市和

東御市には滋野神社が二つある。
一つがここ和の地字海善寺の滋野神社で滋野氏の氏神とされる。
紺屋町の「八幡宮」は天正12年(1584)に真田氏が上田城築城の際、海善寺の「八幡社」を移したものといい、この滋野神社はその「八幡社」の跡地になる。

もう一つは新張の「滋野神社」で、勅使牧の役人、滋野良成が大同年間(806年)に創立したと伝える。明治13年に滋野神社と改称したといい、元は諏訪系の神社と思われる。


祭神は応神天皇・神功皇后・姫大神。
創立は未詳。
伝承では大昔、海野郷内に移住した滋野氏代々の産土神で八幡大神を祭った。天延年間(974~976)に海野幸恒が再建という。

海野郷内に移住した滋野氏とは、一般に云われる滋野貞主(785 - 852)の推薦で一族の者が信濃の国司に任ぜられ信濃へ下向したといわれている。孫の滋野恒蔭(滋野大外記)が貞観 10 年(868)に信濃介となっている(「日本三大実録」)のがそれであろうか。
一説に平安時代前期の公卿滋野朝臣貞雄の孫が滋野恒蔭ともいう。
その滋野恒蔭の娘が貞保親王の御落胤目宮王を産んだと云い、その子である善淵王(貞保親王の孫)は、延喜5年に滋野朝臣姓を醍醐天皇から賜り滋野朝臣善淵と称したという。

海野幸恒は、望月牧監となり海野に下向した滋野恒信(海野幸俊と改名)の跡を継いだ海野氏2代目である。
海野氏に関しては、上田市山口の「白山比咩神社」に延喜四年(904)の海野幸明の再建札があるなど諸説あるらしい。

滋野神社の西には海野氏菩提寺である「興善寺」。南の白鳥台には海野氏居館である「太平寺城(海野館)」があり、三分には「古城(海野城・物見城)」がある。
すぐ東には「廃海善寺跡」があり海野氏の祈願寺であったというが、天正十一年(1583)真田昌幸が上田城を築いた際、城の北東に鬼門鎮護の寺として「八幡宮」近くに移転した。現在の「海禅寺」である。
海野氏にゆかりのあることは確かなようである。

 南の参道の鳥居。風化して読めない。

 参道。

 境内の鳥居には八幡宮とある。

手水鉢。
拝殿。
本殿。

 「由緒。ここのお宮は昔氏子の祖先が産土神を祀っていた処へ、京都男山の石清水八幡宮から分社された八幡宮を祀り、氏子はじめ東信地方の豪族海野氏からも厚く信仰され、五穀豊穣と家内安全を祈願し、その祭典には奉納の相撲や芝居の催しで社頭殷賑を極めし由
ここのお宮から上田市紺屋町八幡社や、更にそこから真田氏によって松代町にも分社されたと伝えられる。明治十三年に八幡宮から現在地滋野鎮の字名に拠り、滋野神社と改称された。(以下略)」

字地が「滋野鎮」というのは意味深い。
明治期に行われた「神社改め」で、名前や由来のはっきりしない祭神は変更させ、神社の名前も地名を冠したものに変更されることが行われたようである。
この神社の場合、名前も由来も伝わっているので「八幡宮」でも良いものを「滋野神社」に変えたのは役人の都合か、訳あってのものか。



 境内には白鳥河原の挙兵で木曽義仲が戦勝を祈願したという、御手植えの木瓜(ボケ)の木があり、紅白花を咲かせるそうだが、どれの事かわからなかった。




2018、6月初訪。

2018年6月26日火曜日

海善寺跡@東御市海善寺

海野氏居館である太平寺城の東を流れる金原川を、北へ遡った西側、海善寺集落の北西に、墓地を含む広い平地がある。
海善寺跡といわれるところで、前方には大坊や大門の呼称も残っているという。
一帯は浄土的ともいえる不思議な雰囲気がある。

ここから文保元年(1317)の銘の宝篋印塔の基壇が発掘され、現在は興善寺境内に移されているという。

塩尻市の常光寺所蔵の奧書に「明徳元年(1390)九月七日・海禅寺南光坊・書おわんぬ」とあるといい、南北朝末期にも海善寺がつづき坊があったことがわかるという。
また、永禄六年(1563)には武田信玄が、いったんは没収した寺領を海善寺側からの願いをきいて還付しており、寺領は三六貫五〇〇文と大きい。
この「武田信玄寄進状」では開善寺の字を用い、禅の字を用いたものもあるが真言宗という。海野氏も祢津氏と同様古一族であり、密教系真言の寺を持つことは当然である。
海善寺は文保元年鎌倉後期から南北朝期を経てつづいたが、天正年代に入って真田昌幸が上田城下町を形成するに伴って、上田城下に移転を命じられた。天正十一年(1583)以後のことである(「東部町誌」)。

天正十一年(1583)真田昌幸が上田城を築いた際、城の北東に鬼門鎮護の寺として移転。
元和八年(1622)真田信之が松代に移封になると松代城下に移転。
おそらく「海善寺」の寺号とともに移ったと思われるが、のち「開善寺」と改めている。
その為上田に残された「海善寺」は「海禅寺」と改称したものと思われる。
移転されたのが「海善寺」である理由としては、おそらく、東御市の「海善寺」がそれ以後廃寺となったと思われることから、永禄六年(1563)以後に戦火等で荒廃していた可能性があるのかもしれない。

海善寺跡の一角にある五輪塔郡。

おそらく付近に散乱していたものを集めたものだろう。

五輪塔群の脇に「海善寺跡」の石碑が建つ。
海野氏創建の祈願寺とある。

墓地の北の平地。
善光寺などみても、墓地や供養塔は本堂の裏(北)にあるもののようにも思えるのだがどうなのであろう。

前方に大坊や大門の呼称も残っているというのは、やはり南側一帯をさすと思うので、或は公民館辺りまでが寺領であったものか。

墓地の東北には、北から流れてきた金原川が人為的に東に折れ、また南に折れている所がある。近代の手が入っているのは明らかだが、かつての寺領北辺の形跡であるのかも知れない。

その付近はうっそうとした林と畑地とであるが、雰囲気はある。

ここの西にすぐ近く海善寺の滋野神社があり、元は八幡神社で滋野氏の氏神とされている。
この神社も真田氏が上田城築城の際、紺屋町に移された八幡神社八幡神社となっており、滋野神社はその跡地である。

史料を漁っていないので、とりあえずはここまで。


2018、6月初訪。
2020、3月追記


足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...