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2018年6月5日火曜日

大日堂と百体観音堂@東御市祢津

上田・小県地方の中でも屈指の大きさのお堂であり、本尊の大日如来像は藤原期(平安中~後期)の制作とみられ、現在は秘仏になっている。

大日堂は元々は「古大日」という地籍にあったが兵火で焼失し(天文・永禄年間1532~1569)、延宝7年(1679)に長命寺別当「小林院勧化沙門清尊」の発願により現在の地に移されたという。
また別当である長命寺は創立当時(天延三年(975))は新張牧奈良原の聖地にあり、鎌倉時代(1185頃 - 1333)の初期に現在地に移転し12坊を擁する大寺院であったが、天文年間(1532~1554年)に兵火により多くの堂宇が焼失し衰微し、江戸時代に領主である松平家の庇護により再興したという。



「江戸時代初期(延宝七年 1679年ころ)の建築物で、長野の善光寺、甲府の善光寺に関係の深いお堂で道内に本尊・大日如来像のほか、善光寺三尊型式の仏像が安置されている。昔は西宮の「古大日」地籍あったのが、のちに現在地に移されたと言われている。今は長命寺が別当しているが、古くは長命寺の小林院が管理してきた。 大日堂は江戸時代から明治初期まで旧九月二十八日が縁日であった。 通称「祢津の柿祭」とも云われて大変賑わい甲州・上州あたりから侠客の親分衆が集まり、賭博などが開催されたと伝えられ、布引観音の祭りとともに東信地方で著名な祭りであった。 現在は桜の季節の四月二十八日に改められている。」(案内板)

また堂内には算額が掲げられ、幕末期のこの地方の和算文化を知ることができる。
関流の始祖で算聖とあがめられた関孝和(1624~1708年)によって算額は始められ、各地に流布したという。

古大日の五輪塔郡。
元の大日堂はこの辺りにあったとされている。


境内の百体観音堂と石尊大権現の拝殿。
百体観音堂には西国三十三ヶ所・坂東三十三ヶ所・秩父三十四ヶ所霊場の計百体の観音様を奉っている。

江戸時代末頃のものという堂内の百体観音。
三霊場巡礼をしなくてもここで百ヶ所巡礼したことになるという。

「石尊さまの納め刀」
石尊大権現(神奈川県伊勢原市大山:大山阿夫利神社)で、拝殿内には祈祷や祈願の際に持ち帰った数多くの木製の刀が奉納されている。
農耕豊作の雨ごいの祈願をするため、天明元年 (1781)から今日に及ぶまで納められてきた 約 160 本の大小さまざまな木刀であるという。

石造西国三十三観音像


すぐ近くの東町歌舞伎舞台。文化14年(1817)建立と西宮の舞台より1年遅い。
コマ回し式回り舞台や「せりあげ」を持った舞台で農村歌舞伎がおこなわれた。祢津には西宮と東町に舞台があり「舞台飾り見るなら西宮、芝居見るなら東町」と言われ 相互に競いあったそう。
現在も地元の小学生たちで歌舞伎上演が続けられ伝統芸能の継承がされている。


東町歌舞伎舞台に隣接する日吉神社。






2018、5月再訪

2018年5月31日木曜日

長命寺@東御市祢津

長命寺本堂
山号は智光山。東町の宮川、住時の通称金井小路の奥にある真言宗の寺である。
現在の長命寺は、元禄十二年(1699)当時祢津の領主松平氏が復興を発願して建てた江戸時代のものという。
寺伝では、天延三年(975)に尊誉が開山となって創建されたという。
尊誉は永祚元年(989)に示寂している。
現在でも本堂のわきに護摩堂が建ち不動明王が安置され護摩の火がたかれ、古くはこの寺に真海坊・正行坊・道正坊・道高坊・大日坊・三界坊・天智坊・小林坊・真如院・浄正院など十二坊の坊や院が並び建っていたという。
現在長命寺の東方山ろくに建つ大日堂は、もと地字古大日にあった大日如来を延宝七年(1679)に今の地に移したものという。
祢津氏は平安期からの古族であり、当然密教系の仏教を導入していたろうし、長命寺は真言の古寺であったとする伝承が残っていること、大日如来から不動明王とつらなる修験の秘法が受け継がれ今日も護摩堂をもち、かつては修験者や僧がいたと思われる坊や院が存在したことなどから、長命寺の起こりが古いことがわかる。
なお、武田信玄が善光寺仏を甲州に移したとき、一ときこの寺に預けられたことがあったことでも知られている。(「東部町誌」より)

この参道の西には通称金井小路が並列している。

山門
智光山三光院長命寺。
本尊は延命地蔵菩薩 脇立 十一面観音・愛染明王
寺伝では創立当時(天延三年(975))は新張牧奈良原の聖地にあり、密教の修行道場として栄えた、鎌倉時代(1185頃 - 1333)の初期に現在地に移転し、寺運愈々栄えて山下に塔頭として、真海坊・正行坊・道正坊・道高坊・大日坊・三海坊・元智坊・浄正院・真如院・小林院等十二坊を有する大伽藍であったという
。
奈良原には「古寺跡」「奈良原京跡」等の地名があるといい、「長野県町村誌」に「東西五十間、南北百間、石畳残礎(中略)住古大寺の遺跡なるべきも、其寺号伝われず、今考うべからず。」とある。寺伝を信じるならそのあたりか。
「上田小県誌」に「馬と関わりの深い傍陽の天台宗実相院、芝生田の天台宗東漸寺の持ちである深沢観音の例と同じように、牧と密教寺院の結びつきも考えられる。…」とある。

祢津氏の初見は保元の乱(1156)だが、祖とされる大伴氏から祢津氏を名乗った時期は不明である。

また新張牧奈良原は滋野氏の祖とする楢原造東人の先祖の地とする説もあり。

『新撰姓氏録』によれば、紀伊国造の流れをくむ紀氏と同族で、天道根命の後裔とされ、旧姓は楢原造、次いで伊蘇志臣。同時に、天道根命は神魂神の5世の孫で、伊蘇氏(伊蘇志)・楢原氏・滋野氏の祖と伝わる。
天平勝宝2年(750)に駿河守として駿河国へ赴任した一族の楢原東人が黄金を朝廷に献上した功で孝謙天皇から伊蘇志臣(勤臣とも)を賜姓し、延暦17年(798)に伊蘇志家訳が滋野宿祢と賜姓されて以後、宿祢姓の滋野氏となり、さらに弘仁14年(823)には家訳とその子の貞主が滋野朝臣姓を賜っている。(Wikipedia)
やがて滋野一族が信濃の国司として信濃に下向し、信濃滋野氏の祖となるのだが、大伴氏の子孫である祢津・海野・望月がこれに結び付き滋野姓を名乗ったというのが一般的な大筋だろうか。

「日本霊異記」に宝亀4年(773)のこととして信濃国小県郡跡目里に住した他田舎人蝦夷の逸話が、宝亀5年(774 )のこととして信濃国小県郡嬢里里に居住した大伴連忍勝の話しがあり、大伴氏は本海野辺りに氏寺があるとある。
他田氏は現浦里から青木にかけての豪族で古代信濃国造の裔であろう(一説に他田氏の祖は大伴氏とも)。

新張牧奈良原の長命寺はこれらのうち誰に関わる開基であろう。

長命寺山門前の道。
奥の山には大日堂や百体観音堂がある。かつて坊や院が並び建っていたのはこれらの山域であろう。
長命寺HPに「本尊延命地蔵菩薩は室町時代の御作で、戦国時代武田信玄信州攻入りのおり、当本尊に戦勝祈願をなすと武田記にある。」とある。
また、天文中年(1532~54)長命寺堂坊兵火にあい小林院のみ残り、大日堂も元は「古大日」地籍にあり、やはり兵火で焼失(天文・永禄年間1532~1569)、延宝7年(1679)に長命寺別当「小林院勧化沙門清尊」の発願により現在の地に移したという。
武田信玄が善光寺仏を甲州に移したとき「祢津村に一時安置した」という記録(1555・7月~1558・9月)が残っているというが、「東部町誌」にあるように長命寺に預けられたとみるのが妥当であろうか。

長命寺東側の道。大日堂へと通じている。
右の細いせんげが小河川だろうか。
「信濃の山城と館」には「長命寺館」とあり、この川による高台が館を置く好条件としている。
同書では、「ここに館があったかについては全くの不明」としながらも「上田小県誌」から「…長命寺の位置も城郭の跡ではないかと推測される形状にあるが、今の所確実な裏付けがない。」を引用して考察を加えている。
長命寺は天延三年(975)新張の奈良原に創建され、鎌倉時代(1185頃 - 1333)の初期に現在地に移転したのであれば、それまでは豪族の屋敷地であったのかもしれない。

山門を入って右手の浮島。祠共々に謂れはわからない。
護摩堂は確認していない。



 金井小路と呼ばれる路地。
諏訪社に関わるとする金井氏に関係したものといわれる。
領主祢津氏は諏訪神氏であるが、長命寺門前近くに金井小路があるのは、諏訪社の祭祀とも関係の深い時期があったのかも知れない。


2018、5月初訪

2018年5月18日金曜日

御姫尊@東御市祢津

祢津西宮の祢津健事神社の東北に地字「御射山」・「岩井堂」があり、その「岩井堂」(祝堂)にある巨石に彫られた二尊像をいう。
祢津領主松平忠節の奥方了照院が婦人病を患ったが、霊夢の導きで巨石に祈り、治ったたことから、巨石の側に庵を結んで病の女性の救済に尽くしたと伝えられ、「吾れ死後一心こめて折りなば腰より下の病をなさん」という辞世を詠んだとしている。
貞享二年(1685)に亡くなり遺髪を巨石の傍らに葬り、お姫さんといわれ女性の参拝を集めたという。


参道入口付近。
すぐ向かいは祢津上の城。
すぐに削平地に行き着く。


平地中央の石塔類。
年代を確認していないが古いものではなさそう。ただ、散在していた五輪塔をまとめて祭った様子なので周りの五輪塔郡自体は古い可能性がある。
平地は結構な広さなので寺でもあったのかとも思ったが、「岩井堂」自体か松平忠節の奥方が結んだという庵がここに在ったかも知れない。現状では巨石のすぐ近くに朽ちたお堂があり、従来もそうであった可能性が高い。
この平地は周囲に池跡や東屋があることから、近年に公園化された際に広げられた可能性もある。

削平地から見上げたお堂と巨石。
想像したより大きそうだ。
荒れ果てた参道。
朽ちたお堂と崩れそうな石垣。これは近いうちには立入禁止になる可能性もある。
石垣は古いものでは無さそうだが、ここに、これだけのものがあること自体がかつての振るわいを偲ばせる。
お堂内。拝殿となっていたらしい。
ついに巨石。

正面から見るには拝殿内からでないと無理のようだ。
こういった巨石には石船伝説なりがつきまとうイメージがあるが、ここには聞かれない。
だが、巨石に彫られた御姫尊自体は江戸時代のものであるが、それ以前からここが何かしらの信仰の対象であったことは「岩井堂」の地名からもあろうと思われる。

周辺。
更に上がる。
見晴らしが良い。確証はないがこの辺りが地字「御射山」だろうか。

「御射山」は狩場であった所と思われ、諏訪神氏であった祢津氏が「御射山」神事を行ったいたことを伝える地名ではとも言われている。
「御射山神事」については説明は省くが、その狩に使われたのが鷹(鷹匠)で、祢津氏がその神事を行ったという資料はないのだが、祢津長命寺の前に「金井小路」があり、これは諏訪上社で神に供える料理を作る「鹿人職」と神官や巫女たちの面倒をみる「大市職」を務めた金井氏に関係した者が住んだところではと推測され、諏訪社の祭事が行われていた可能性がある。(「祢津の里ノノウの実像」より意訳)
諏訪社参照。
諏訪氏参照。
祢津氏参照。
金井氏参照。



ここは麓の定津院の別院であることだが、もう少し何とかならないものか。切ないかな、廃墟マニアにはたまらないんだろな。


祢津は日本一の巫女村といわれる。江戸時代の「信濃の歩き巫女(ノノウ)」を指したものだと思うが、彼女らもこの御姫尊に多くすがったに違いない。

祢津下の城


2018、4月初訪

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...