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2018年12月14日金曜日

横道の館@上田市真田傍陽横道


下横道区民館の南側、県道傍陽菅平線と古道に挟まれた辺りに在ったという。
「信濃の山城と館」に「横道の館(堀の内)」とされているので、この場所は「堀の内」と言われているのかもしれない。
史料は無く、伝承等も不明というが、位置的に真田氏に関わる者の館跡とみられるという。
真田氏は、古代の山家郷一帯に牧場経営で力を持った土豪とみられており、その初期の本拠地が傍陽地域で洗馬城の麓の萩の館(堀の内)ではなかったかという大家の説がある。

真田氏の祖が古代の山家郷一帯で牧場経営をし、力を持って土豪化したであろうことはあり得る事と思う。その初期の本拠地が傍陽地域で洗馬城の麓の萩の館であるという根拠はよく分からないが、付近に牧にかかわる痕跡が多いからだろうか。
本原の出早雄神社は「日本三代実録」に、貞観2年(860)に馬背神・駒弓神とともに位をけられたなどの記事があり、相当の実力者の存在が在ったことを示すが、それは真田氏では云々とは同じ一志茂樹氏の説であったと記憶している。
さて、真田氏とは一体どんな出自をもった氏族なのだろう。
この地域では堀内姓が圧倒的に多く歴史の古さを物語るが、横道の館も堀内氏に関わる可能性があるかも知れない。

また付近の館として、萩の館(堀の内)の他には三島平に「伝・カクジ屋敷跡」があるらしいがそれもよく分からない。

十九夜講と番屋跡
下横道区民館北の五差路には、江戸時代に番屋があり、十九夜講などの石塔や常夜燈などが集中し、人の集まる辻であったことが伺えるが、北へに道は若穂保科へと通じ「保科道」とも呼ばれ、東に向かった道は穴沢・三島の集落を通り菅平ばかりか大日向にでる山道もあるという。(横道の十九夜講参照)

常夜燈と古道
この古道沿いに一辺50m内外の屋敷があり、簡単な防備が施されていたように見受けられると「信濃の山城と館」にある。

ここが古道沿いにある一辺50m内外の屋敷と思われる。
一枚目の写真右手の竹の塚は土塁跡のようにもみえる。
また、二枚目写真奥の小山は物見として利用されたのではという。

県道側からだと何やらさっぱりわからない。

県道から見た横道の館推定地側面。

傍らに学校跡とある石碑があった。
この辺りの地割は古い様相をみせているが、「信濃の山城と館」ではここより北側を推定地としている。

ぐっと引いてみる。
この辺りの民家は推定地外らしい。

さらに引いてみる。
中央に遠く見える集落は「弾正塚宝篋印塔と一本松」がある穴沢で、右の山間が三島平方面で菅平や大日向への山道がある。
そうすると、真田氏は上州街道を中心に語られがちだが、この地域が太古の牧場云々はともかくとして如何に重要かがわかる。少なくとも乱世にあってはこの地を抑えずして真田の里の安全な経営は成り立たないといえる。

さらに「保科道」方面。

トップ画と同じよなアングルだが、物見山(推測だが)との位置関係がわかる。

ゾクッとする段落である。
一辺50m内外の屋敷前の畑から更にとび出した畑地で、もはや郭を想像せずにいられない。
古道の東側には堰が呼び込まれており、南側は濠であった可能性がある。
そうなら土塁周りはと思うのだが、古道より屋敷推定地内側の畑の方が若干低く溜池まであるのでよく分からない。

それでも脇にはせんげも走っているので、古道に添って堀の役割のものくらいはあったかもしれない。

土塁近く古道の脇に道祖神があった。
近所の子供のしわざであろうか、それとも何かのまじないか。並べられた小石や貝殻らしきものが印象的だった。


横道の古道と土塁跡

2018、12月初訪



2018年5月18日金曜日

深井氏居館(堀の内)@東御市和

「東部町誌」に深井堀之内とあるのがそうである。
東深井の集落より少し南に離れており、西へ行くと西深井集落で西深井居館(正村屋敷)がある。東は曽根で海野氏菩提寺の興善寺がある。
深井氏は海野氏の一族で深井郷を所領し、海野本郷と現青木村の代官でもあった海野氏の重鎮である。
深井氏参照。
海野氏参照。

道路左が深井氏居館跡。かつては堀で囲まれていたと推測される。

南側。ここにも堀が回っていたであろう。
出丸的に突き出たところが実に憎い。

北東隅の辺り。
北の道路。右が居館跡。
かつては北面にも堀があったというが、居館跡は道路より低いので敷地内に在ったものだろうか。


西側の堀跡。
見事に残っている。すばらしい。

南西隅辺り。
雰囲気はすごくあるが、民家なのでね。
現在でも深井氏の御子孫の方がお住いになっているそう。



ここでは蛇足だが「歴史は語る東深井區誌」(昭和49年)より東深井区の戸数を拾ってみた。
深井24、堀17、押金8、竹内3、中村2、松尾2、中村2、宮下2、温水1、白倉1、宮坂1、清水1、新井1、山田1、平尾1、関1、小林1、唐沢1

「和村誌」(1959)「上深井村田畑惣貫之御帳 承応三年 (1654)松尾家文書」より深井地域の小字を引用しておく。
「かご田 ・うしろ村・竹ノわき ・よこしい ・さぎ坂・宮ノわき ・屋つく路 ・東うら・屋しき・ 宮ノ下・ くね下 ・見みう ・若宮・かぢばた ・くぼ ・宮ノまい ・道六神 ・さわ ・ぜにいい ・清水 ・木下 ・中島・ほリノ内 ・なめし ・清水尻 ・東沢・ひがし畠 ・いまい ・次郎五・山道 ・こひとう ・穴水 ・道下・ くねぎわ ・ばんば ・だいもん ・そり ・白ひげ ・ふたい ・そり田・ひかげ ・石はら ・白ふち ・ほそはた ・まい ・から沢・びやつた ・はば下・せき下 ・つかはた ・法のはた ・くねそへ ・西畑・金井 ・かしはた ・ほりや敷 ・とうかいと い・つなめん ・くぼう道下・屋けほまち ・あいかわた」


また穂見神社で一考したと同じようなものを記しておく。
深井氏居館を南に行くと、Ⅽの場所で台地を下り大屋に至る。
中世の小街道の幾つかは深井郷を抜け真田方面に向かっていたと思うのだが、根拠が無いながらABⅭ地点には、地勢的に何かしらの施設が在ったのではと推測している。
未だⅭの場所は探索出来ていないので、ここではB地点を歩いた写真を二三上げておく。

この細道の左上が気になるB地点。
「和村誌」にある「白髭という地名が下栗林の下平と西深井の南、唐沢にある。唐沢には神社があったらしい。これが白髭神社で帰化人を祭ったものである…」が穂見神社である気はするのだが、一帯が字地唐沢と思われるので或はこの場所か。そのあたりは調査不足である。
南側から見ると饅頭型。山城の主郭と似た印象を受けるが古墳の可能性もある。
実際にはかなり広く、畑地となっていた。
この先の北側は緩やかな果樹園となる。堀跡らしきものは確認できなかった。
西斜面。南側斜面も同じような笹藪である。
南側斜面。
この辺りでは少々小高くなった場所であり、台地上の深井と下の大屋・岩下を繋ぐ小道が通る際である。
どうであろう。物的根拠がない以上やはり無理があるだろうか。

2018、5月初訪

2018年4月17日火曜日

萩の館(堀の内)



洗馬城に密接な関係がある館跡と思われる。
洗馬城(古城・堀の内城・城の山)参照


小学校北側の100m四方程が萩の館(堀の内)と推定されている。洗馬城とともに主の名は不明であるという。
写真奥の平らな辺りがそれで、手前の畑地は「くらやしき」と呼ばれるらしい。
小学校グランド横から撮影地までの傾斜地は墓地となっている。
洗馬城および萩の館との関連を後に考察する為に、墓石の家と家紋を記しておく。

牧内家    木瓜    6家    内一大きな供養塔あり
柳澤家    木瓜    1家    
井澤家    橘       2家
堀内家    桔梗?に源氏車    3家
橋詰家    ?
中村家    木瓜    2家
もしかしたら他にあるかもしれない。

2017年12月19日火曜日

岩門城@上田市古里岩門


土塁跡に建つ正一位稲荷
岩門城・本城・堀の内とも。
伝承も記録も不明ながら成立は鎌倉時代末までさかのぼるともいわれる。
鎌倉時代に地頭として赴任した太田氏の居館が起源という説もあるが詳しいことはわからない。武田信玄が村上義清を攻めたときに岩門城の城将は逃亡したと伝わる。

「信濃の山城と館〈3〉上田・小県編」(宮坂武男氏)には、
「中世から岩門の村が存在しているので、ここに居城した豪族がいたことが考えられる。」「このあたりを所領した豪族は海野氏、太田氏、小宮山氏などがあるが、これらの氏人に関連のものであろうか。」とし。また、「岩門神社が鬼門に当たり、何らかの施設があったと思われる。」としている。
岩門神社l参照

武田信玄が村上義清を攻めたときに岩門城の城将は逃亡したと伝わる。とされるが、領主一族の諸流がその地に残り帰農したと思われる例も見られ、その家臣に於いても同様である。もっとも、それが許される情勢であればだが。

推察をかくと、鎌倉時代に地頭として赴任した太田氏、或は海野氏代官小宮山氏あたりが築き、村上氏の小県侵攻により近くの染谷城ともども村上氏配下の者により使用された。やがて武田氏により村上氏が越後に落ちると武田氏の武将真田氏の支配下に置かれ、おそらくは真田配下の者たちが入城したのだろう。
徳川との上田合戦に染谷城が使われていることから、戦国末期、真田氏の松代移封までは岩門城も機能していたのではないだろうか。
因みに岩門の南、染谷台の南端、現国分寺裏の段丘上にある「国露津穂神社諏訪宮」が岩門城に附属する要害っぽいのだがどうであろう。また常田池段丘上、古里の長福寺も要害っぽい立地である。こちらは染谷城と連動していたのではないだろうか。

以上の推察は素人である筆者には根拠を示すこともできないが、地元が近い故の昔からの疑問である。


岩門神社が茅野家に関わるのではとしたが、岩門城周辺の探索をしたところ、堂の坂の墓地には香山家と坂口家があり、香山家は墓石からみても6家はあり、岩門集落を中心に小里地域に18戸程ある(苗字でポン調)。家紋は丸に三っ引。
坂口家は岩門集落周辺に幾らかが散在する程度で、丸に片喰である。
この2氏が岩門城に関わるものか確証はないが、おそらく江戸初期にはこの地に在ったと思われる氏族で、真田、村上、海野らのどの時代かで浅からず関わったのではないだろうか。

また、岩門城の南に岩門集落の氏族と思われる共同墓地があり、やはり岩門城の歴史に関わる可能性があることからこれらを記して後の考証に付したい。

岩門神社の直下の土手に
茅野家    梶    1基    
岩門城の直下の土手(堂の坂)に
香山家    三っ引    6基 
坂口家    片喰    1基
岩門城から南に離れた土手に
茅野家    梶    5基
宮島家    橘    5基
宮島家    抱き茗荷    1基
荒井家    蔦    1基
竹内家    九枚笹    1基
堀家       三つ割り菊 ?   1基
杉浦家    三本杉    1基
内川家    橘    1基
佐藤家    源氏車    1基
斎藤家    不明    1基
渡辺家    不明    1基
さらに南の離れた土手に
平林家    三つ星    1基

1基2基としているが、○○家など近年の一族の墓石を数えたもので、○○衛門など個人の墓数を数えたものではない。よって戸数はもっと多い可能性がある。
また、岩門城周辺の集落のほかに岩門地籍は広く、全てを把握しているものではなく、下の河原や田畑のどこかには、まだ他家の墓所もあるかもしれない。

これら氏族はおそらく真田時代にを起源にするものと、それ以前からの土着のものとが居ると思われるが、他地域の氏族の流れ等と照らし合わせることで、中世世界に対する何かしらのがイメージ出来ればと思うものである。



 ③辺りから④の小字名、本城方面をみる。
北側のホリノ内
 絵地図上の④の北側のホリノ内。左に見える土塁跡から右手の髙くなる段差まで10m程が堀跡と推定されている。

ホリノ内
 絵地図上の⑤の北側のホリノ内に当たるところ。幅10mの堀跡とされている。

土塁跡
 「信濃の山城と館〈3〉上田・小県編」(宮坂武男氏)では、堀跡(ホリノ内)の北側の土塁は、ここから正一位稲荷の土塁遺構まで東西に約90m繋がってあったとしている。

土塁跡に建つ庚申塔
 絵地図上の⑤辺りの土塁跡に建つ庚申塔や道祖神らしき石仏。

西側の堀跡
 絵地図上の⑤辺りから南側を見たところ。城の西側の堀跡とされている。
右手の民家の祠は氏神だろうか、朽ちかけているが立派な祠が祀られていたと思われる。

秋葉神社
 絵地図上の⑤辺りにある土塁上の秋葉神社。火伏せの神として城跡にあることが多い。
秋葉神社裏の堀跡

小字名、本城
 絵地図上のウブヤ方面から見た④の小字名、本城。石積は新しいものだと思うが一段高くなっている。本郭跡と思われる。

 ウブヤと堂の坂の間の堀切。堂の坂は堀切跡にできたものだろう。
堂の坂
 下の畑につながり、対岸の蒼久保の人達が神川を渡り堂の坂を登り、上田への従来に使ったという。
堂分と思われるあたり
堂分と堂坂の周辺
 堂分の地名はこの辺りまでが堂(大日堂か)の敷地を表すものだろうか。
「信濃の山城と館〈3〉上田・小県編」(宮坂武男氏)では、この辺りは南側の堀とし、そのまま堂の坂に竪堀として落ちている。
また大手の場所は判断し難いが、この辺りの堀に折れがあるので、そのあたりが虎口であったかもしれないとしている。


宮の坂

絵地図上の③の宮の坂。岩門神社と岩門城の間にあり、ホリノ内の堀から竪堀となり神川へ落ちている。
岩門神社l参照
東斜面の郭跡
絵地図上の③の宮の坂の南側の急斜面にある郭。
「信濃の山城と館〈3〉上田・小県編」(宮坂武男氏)にあるように、奥にもう一段ある。
東斜面の郭跡

郭のある東側は神川ががつくった段丘で、その斜面はもはや崖である。

その他の遺構として、「信濃の山城と館〈3〉上田・小県編」(宮坂武男氏)では、絵地図上の④の北側のホリノ内とウブヤの境あたりに竪堀や数段の郭が描かれているが、今回は見られなかった。

岩門城想像図
「信濃の山城と館〈3〉上田・小県編」をほぼトレースした絵図。


国分寺道跡
国分寺道跡の地蔵菩薩
絵地図上の⑥の地蔵菩薩。国分寺道の脇に建つ。

大日堂跡と国分寺道跡
この城跡を縦に突き抜ける国分寺道は、祢津街道から国分寺に詣でる古道であったという。

 また、城跡内は「活文禅師遺跡三号岩門大日堂跡」として市指定史跡となっている。
幕末に活文禅師が隠棲し寺子屋を開いた場所で、佐久間象山が松代から通って教えを受けたことで知られる。
当時の大きさは建物の構造から見て約70平米(21 坪)くらいと推定されている。庭には象山駒つなぎの松(2代目)がある。

岩門集落



2015年10月

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...