下横道区民館の南側、県道傍陽菅平線と古道に挟まれた辺りに在ったという。
「信濃の山城と館」に「横道の館(堀の内)」とされているので、この場所は「堀の内」と言われているのかもしれない。
史料は無く、伝承等も不明というが、位置的に真田氏に関わる者の館跡とみられるという。
真田氏の祖が古代の山家郷一帯で牧場経営をし、力を持って土豪化したであろうことはあり得る事と思う。その初期の本拠地が傍陽地域で洗馬城の麓の萩の館であるという根拠はよく分からないが、付近に牧にかかわる痕跡が多いからだろうか。
本原の出早雄神社は「日本三代実録」に、貞観2年(860)に馬背神・駒弓神とともに位をけられたなどの記事があり、相当の実力者の存在が在ったことを示すが、それは真田氏では云々とは同じ一志茂樹氏の説であったと記憶している。
さて、真田氏とは一体どんな出自をもった氏族なのだろう。
この地域では堀内姓が圧倒的に多く歴史の古さを物語るが、横道の館も堀内氏に関わる可能性があるかも知れない。
また付近の館として、萩の館(堀の内)の他には三島平に「伝・カクジ屋敷跡」があるらしいがそれもよく分からない。
十九夜講と番屋跡 |
下横道区民館北の五差路には、江戸時代に番屋があり、十九夜講などの石塔や常夜燈などが集中し、人の集まる辻であったことが伺えるが、北へに道は若穂保科へと通じ「保科道」とも呼ばれ、東に向かった道は穴沢・三島の集落を通り菅平ばかりか大日向にでる山道もあるという。(横道の十九夜講参照)
常夜燈と古道 |
この古道沿いに一辺50m内外の屋敷があり、簡単な防備が施されていたように見受けられると「信濃の山城と館」にある。
ここが古道沿いにある一辺50m内外の屋敷と思われる。
一枚目の写真右手の竹の塚は土塁跡のようにもみえる。
また、二枚目写真奥の小山は物見として利用されたのではという。
県道側からだと何やらさっぱりわからない。
県道から見た横道の館推定地側面。
傍らに学校跡とある石碑があった。
この辺りの地割は古い様相をみせているが、「信濃の山城と館」ではここより北側を推定地としている。
ぐっと引いてみる。
この辺りの民家は推定地外らしい。
さらに引いてみる。
中央に遠く見える集落は「弾正塚宝篋印塔と一本松」がある穴沢で、右の山間が三島平方面で菅平や大日向への山道がある。
そうすると、真田氏は上州街道を中心に語られがちだが、この地域が太古の牧場云々はともかくとして如何に重要かがわかる。少なくとも乱世にあってはこの地を抑えずして真田の里の安全な経営は成り立たないといえる。
さらに「保科道」方面。
トップ画と同じよなアングルだが、物見山(推測だが)との位置関係がわかる。
ゾクッとする段落である。
一辺50m内外の屋敷前の畑から更にとび出した畑地で、もはや郭を想像せずにいられない。
古道の東側には堰が呼び込まれており、南側は濠であった可能性がある。
そうなら土塁周りはと思うのだが、古道より屋敷推定地内側の畑の方が若干低く溜池まであるのでよく分からない。
それでも脇にはせんげも走っているので、古道に添って堀の役割のものくらいはあったかもしれない。
近所の子供のしわざであろうか、それとも何かのまじないか。並べられた小石や貝殻らしきものが印象的だった。
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