「東深井区誌」に「関殿屋敷」があり、「昭和四十六年(1971)タタラ堂の関実雄氏が祖先先住の地として、深井池の北に碑を建てたが、そこよりやや北東100mほどの地が関殿屋敷と伝えられている処である」とある。
「深井池ができるより前、寛保の大洪水よりもっと前、このあたりは大雨の際に、烏帽子水系の水が栗林から瀬沢川の次郎淵の方向に向かって大荒れに荒れたところと伝えられ、この地に水害が多く安住に堪えないと屋敷を払って田沢へ移住したと古老は伝え、それが関氏であるという。」(「東深井区誌」)
寛保の大洪水より前とあるが、江戸時代中の事象をいっているのだろう。
殿屋敷といっているので、それなりの身分の者が在ったものと思われる。
現状では「関殿屋敷」がどういった謂れのもので、どういった人物がいたものか分からないが、地域に伝承が残る以上は残すことが大切で後の研究でもうすこし何か分かればとおもう。
上の写真の道に添ったせんげが吉田堰から下る中堰で、橋が松代古道。道の右奥に「関殿屋敷・祖先先住の地」の石碑と五輪が建つ。
現地の証言をとっていないので正確にはわからないが、吉田せんげと古い松代道の交わる辺りが北東100m付近になり、この北の畑地辺りが該当地ではと推測する。
その北側の畑地方面。
奥の竹林があやしいが、全宗院のある方向であり、古道沿いであることからこの周辺のどこかが「関殿屋敷跡」であると思われる。
東側の道から見た所。
「関殿屋敷・祖先先住の地」石碑の周辺は「さくれん林」というところで、明治時代はあたり一帯が大きなくぬぎ林であったという。元和七年(1621)と承応三年(1654)の古文書に組頭として出てくる作右衛門という人の林で、「さくえもん林」ではと「東深井区誌」にある。
この場所から西北下方に流れる細いせんげが「次郎淵堰」で付近は「次郎淵」地籍といい、明治頃までは大きな石が道に横たわり、横石という俗称の起源であったという。
これらの名と関殿屋敷との関係はわからない。
大きな石ではないが、字次郎淵にある石。
かつての「さくれん林」と「次郎淵堰」。
旧松代街道。
「中堰」
次郎淵地籍の北西には「竹ノ鼻」の字地があり、その南は「西深井居館(正村屋敷)」がある。
吉田の全宗院は、武田信玄の第2子竜宝が海野家を相続してここを領し、一庵を建て「潔泉院」としたのを起源とする。
近隣では北信の島津氏の与力に関氏が見え、真田氏の史料にも家臣に関氏が在ったことが伺える。
江戸末期の力士雷電は、大石村の関半右衛門家に生まれたというから関姓であろう。
深井地区は中世には旧族深井氏の所領で、海野氏の執事であったといい、田沢も海野氏の支配するところである。
参考に付近図
2018、12月初訪
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