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2019年2月15日金曜日

幣川神社@長野市篠ノ井御幣川

創立慶長年間。水田の開墾する黄金の幣、高さ5~6寸なり。掘出せし彫文有り八幡宮の三字、甲越戦争の際も村名定まらず、金幣得るを似て八幡宮と称し御幣川とす。正徳に至り金幣賊に掠奪される。後、新幣を模造して神霊とす。口伝なり。(長野県神社庁HP)
祭神は誉田別命
鳥居横には歯痩医殿がある。


参道

本殿


相原文哉先生(郷土史研究・長野市伝統環境審議会会長他)による「篠ノ井の古建築調査会」一行5名による神社の調査が7月4日に行われました。調査は拝殿及び本殿を中心に行われ、時間の都合で末社等は後日の調査となりました。先生方も立派な建築に接し感動され、説明にも力が入り時間が予定を上回る結果になりました。この機会に、先生が特に注目されたものの中から一部を紹介し、区民の皆さまに機会をみてご鑑賞を頂きたいと思います。 1.屋根について この時代、瓦屋根の社は珍しく、特に箱棟(屋根の最上部)の意匠は素晴らしい、巴の紋章は八幡宮の証し、火災水難の願いが込められている。また両端の鯱(しゃち)も珍しく貴重なものである。近くでは柳原神社(中御所)や長国寺(松代)に見られる程である。 1.彫刻について 立川流彫刻棟梁清水与作の作品は先生も高く評価されており、このような作品がここ御幣川に存在することに驚かれていた。絶賛され説明に熱がこもり時を忘れるに至った。 ○ 「向拝」(ごはい)社殿入口の部分のことで、向拝柱の面取りも正しく、その上の欄間の一対の龍の彫り物、両端の見返獅子ともその大きさと出来栄えは素晴らしいものです。 ○ 拝殿の正面、側面の彫刻は透かし彫りで、中心に波と亀、隣に末と小鳥、側面には竹と梅が刻まれ、それぞれが阿吽や左右の均等が保たれ作品の見事さと作者の意気込みが伝わってきます。 ○ 「手挟」(たばさみ)拝殿入口正面の回廊の上、「海老虹梁」(えびこうりょう・曲がった梁)の上に取り付いている彫り物で、菊の花を大胆に彫り上げている、「籠彫り」(かごほり)の手法でこれだけの厚みのある作品は大変貴重なものであり、目に付かない所にあることがかえって重厚さを感じる逸品である。一度は是非ご覧いただきたいものである。(幣川区hp)

とあるが、金網でほとんど見えない。

境内社



2019、1月初訪

歯痩医殿@長野市篠ノ井御幣川


幣川神社の鳥居脇にある。


古老の話によると、御幣川に信心深い人がおり、歯痛がひどく、こんな苦しみを人々が繰り替えさないように願(がん)かけを「行之橋」で熱心に行った。満願になると、自ら墓穴に入り鐘を叩きながら念仏を唱えた。上にあけた穴から鐘の音が消えると、人々は土をかぶせて葬った。当時は3年経過して掘り出してミーラになっていたら願いが成就したと信じられていた、人々はミーラになった行者を見つけ、石祠を建ててこの行者をまつりました。 歯瘡医殿に、昭和40年代まで近在の歯痛に悩む人々が訪れた。
 行の橋の場所は東南に800m位のところにある。(幣川区hp)






2019、1月初訪

宝昌寺@長野市篠ノ井御幣川

宝昌寺(ほうしょうじ)
曹洞宗
本尊 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)

 幣川神社(みことがわじんじゃ)の南に位置し、禅宗の寺である。 群馬県安中市秋間の桂昌寺の末寺 桂昌寺住職の月巣玄鶴和尚が御幣川にきて薬師堂に留まり、境内を拡張して、ここに寺を建て一山を起こし「薬王山宝昌寺」と称し開基した。 本堂で寺子屋を開き村人が学んだ。その後明治六年の学制の発布により通明小学校が本堂を借りて発足、明治十三年まで使用された。(幣川区hp)






医王殿薬師堂
本尊の薬師如来は、身の丈七寸余りの身に甲冑をつけ、左手に瑠璃壷をささげ、右手に鉾を持った木造。
本尊は甲冑をつけ、薬壷と鉾を持った珍しい甲冑薬師如来 ☆ 薬師堂は毎年1月8日、八日堂初縁日でにぎわう。
薬師如来は平維茂(たいら の これもち)伝説によるもので、今を去る約一千年前の冷泉天皇の時代、京都から流刑により戸隠山中の荒倉山に「紅葉」と称する鬼女が住みつき、里に出ては人畜に危害を加え、悪事を働いた。朝廷は平維茂将軍に鬼女を退治するよう命じた。将軍は日頃信仰している薬師如来の加護に頼り、ようやく鬼女をたいじした。将軍は使命を果たしその功により越後守に任ぜられた。村人は鬼女の残党が田畑を荒らすことを恐れ将軍にこの地に残るよう頼んだ。将軍は自分の帰依する薬師の尊仏に甲冑を添えた木像を彫り「甲冑薬師如来」と称し、自分を信じるごとく、薬師如来を信じるように言って越後に旅立った。村人は草堂を立てて安置して、依頼薬師如来の霊験あらたかな仏として信仰を集めた。(幣川区hp)

この辺りは、応永7年(1400)に起った「大塔合戦」の戦場となった地であり、「大塔物語」にある「大塔の古要害」と伝承する悲劇の場所がここから西南の方500m程にある。
宝昌寺境内の薬師堂はその大塔合戦の多くの戦死者を葬った所と伝承する。


蟹の紋が付いた寺 動物の紋は珍しいらしい。
由来は知らない。





2019、1月初訪

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...