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2019年6月24日月曜日

大城@北佐久郡立科町芦田

立科町に大城(おおしろ)地籍があり、「じょう」と読まない事から「田代」の意とも解されるが、丘陵台地であることから城跡と捉えられているようで、周辺には、細丸・見戸・番馬などの地名があるという。
「信濃の山城と館」には、「たてしなの地名」に上記のほか、古老伝に「岩下氏居城の跡」というが芦田五十騎の一人岩下甚左衛門の手の者が芦田氏に属したとき、この辺に築城したという伝説も聞かないとあり、つまり城跡と思われるが史料が無く、岩下氏築城の伝承も確証がないということであるとある。

「信濃の山城と館」には、古来牧場と関連のあった地域で、牧場経営によって力をつけた土豪が点在したであろうことから、このあたりの開発領主が屋敷を構えたことは考えられるところであるが、軍事的な城砦とは趣を異にする類いのものと考えられる。としながら、ここには物証が全く見当たらないとある。

大城台地の南から東には芦田川が流れ、芦田川に沿って下ると望月氏領であろう畔田に出る。芦田氏か望月氏がこの道を監視する目的で砦など築いた可能性もあるという。
ただ、畔田側から見れば、もっと北の観音坂などから塩沢方面に出られるのでどうなのか。
これに関して「信濃の山城と館」に、北西1・5kmの西塩沢地籍に「狐の墓場」という地字があり関連が考えられるかとある。
「狐の墓場」の特定は出来ていないが、おそらく桐原との境の丘の墓地のところであろうか。
余談になってしまうかもしれないが、八重原の鍋蓋砦は著名であるが、それによく似た楕円の丘陵地形が桐原と西塩沢にもあり、筆者的にはすごく気になるところである。
八重原の鍋蓋砦は武田軍、或は徳川軍の陣を敷いたところといわれ、確かにそうであるのかもしれないが、他にも楕円地形が現在に残っているとなると、それだけのものでもない気がするのである。

西の丘陵先端部への道は、麓の集落のところで鍵の手に折れているのが印象的である。
北側斜面は大半竹林に覆われているが腰郭状の段が付き、下の道路が広くなって折れているところに石塔があり、登る道になっているようである。東の方に上れる道路があり、登ったところの西側には土塁状の盛土と石像があり、東側には古墳がある。
南側は傾斜のきつい土手で、やはり竹林に覆われよくは分からない。
台地となった東側の境界は全く不明で、大きく見れば台地全体が城域にも見えるが、実際には南の登り道が堀跡であったとみるのが妥当であろうか。

南の道路から見た大城。

南の道路からの坂道。
日の西側は竹林に覆われているが、おそらく西の石塔のところまで続くと思われる腰郭状の段がある。

南の坂道の上、少し東側にある「高根塚古墳」。

南の坂道の上、西側にある土塁跡とも塚跡ともとれる盛土。
石塔と石像が建つ事から造園の時の盛土とも思われないが、「信濃の山城と館」は触れていないので何とも言えないか。

盛土裏の南斜面。
一段の腰郭状の平地が続くのがわかる。

西の狭くなっていく先端部付近。
丘陵といった地形で、やはり南斜面には一段の郭状平地となっている。
最先端部の民家のところは鉤型に折れており、大手であつた可能性がありそうである。

南の道路からの集落の入口。

西の狭くなっていく先端部付近の南斜面。
石塔のところの道が広くクランクになっているのは気を引く。この石塔から登る道になっているようで、段郭状平地の道にもなっているようである。
南の道路の東側。


一方、西側斜面上一帯は畑地だが遺構らしきものは見当たらない。
西側から見た西側斜面。
写真には無いが、西側の田甫には集落の中から農業用水路が通っており、水源と思われる芦田川の上流には芦田城がある。
古老伝に「岩下氏居城の跡」といい、芦田五十騎の一人岩下甚左衛門の手の者が芦田氏に属したとも云われるようで、岩下氏は南北朝期の終わりごろか室町初頭に海野氏から分かれた岩下氏の関連の者かもしれない。そうなると、芦田氏もそもそもは滋野系芦田氏に関わるところで、後に依田系芦田氏に属すという流れになろうか。


台地の南と東は住宅化しているが、城域を示す遺構は見当たらない。
よって大城の規模がはかれないのは前述したとおりである。



2019,6月初訪

2019年6月17日月曜日

向反の館(殿様屋敷)@佐久市春日向反

春日城・本郷の館跡(康國寺)から北西300mのところ、鹿曲川の西岸の段丘上にある。
この段丘上の台地には比田井堰が築かれているが、この堰が堀の役目も果たしており、「信濃の山城と館」では、まず比田井堰が出来て堀割をしたとみられ、堰の開発と深い関りが在ろうとしている。
ここの城主については、春日城に近接しており春日氏及び芦田氏時代に関する者の館とされ、春日氏の関連が強いと見られている。

堰が周囲より高い段丘上を通っていることは比田井地籍の開発をねらったものであろう。堰はこの先、伴野氏に関わると思われる境沢の屋敷(下城氏屋敷)を通っているが深い関連が推測される。
比田井堰は伴野氏流春日氏の支配地にひかれた堰と受け止められ、既筆のように筆者は伴野氏系春日氏ではと思う。

春日には、天文十年(1541)武田・村上・諏訪連合軍が海野氏を攻めるまで、「祢津氏流春日氏」と「小笠原流伴野氏の春日氏」があり、祢津氏流春日氏は本郷春日付近、伴野氏流春日氏は別府付近に共存していたのだという。
祢津氏流春日氏が用水堰を開削し、春日本郷に「春日本郷館跡」と春日城を築いたのは、1180年頃であったとされ、伴野氏流春日氏も別府の地名から国衙を想起でき、平安末期から鎌倉と、どちらも同じ時代まで遡れそうである。(望月町誌より)

鹿曲川と比田井堰に挟まれた段丘上で、一帯はほぼ畑地になってる。
明清寺の北側には土塁跡が残り、繁福寺跡の北には掘跡がきれいに残っている。
掘跡の北は段丘が続いているが、畑に墓地が点在し塚じょうの盛土がいくつも見られる。
明清寺の南側は住宅密集地で地勢の把握は難しい。

向反橋から西の道が南辺と思われるがよく分からない。
但し、西辺は比田井堰、北には堀跡がしっかり残り、東は鹿曲川が天然の堀と堀割がしっかりと確認できる。

向反橋からみた春日城。

向反橋の西の道。
明清寺入口。

明清寺。無住のようで謂れも不明。

明清寺北東一帯の段丘上は畑地になっている。
段などは無いが、土塁のところで堰が折れているので、明清寺境内とは別の郭だったかもしれない。


明清寺北側に残る土塁。
西側、明清寺裏から見た土塁。裾を比田井堰が巡っている。

向反橋から来た道、明清寺裏付近の比田井堰。

比田井堰を北側に行くと周囲より低い田もあり、なるほど堀であったと思わせる。

繁福寺跡とあるところ。謂れは不明。
この北側に堀跡が残り、ここが城域の最北端と思われる。

繁福寺跡北側の堀跡。綺麗に残っており必見。
北側から見ると、繁福寺跡側が少し高いのもわかる。

さらに北にも比田井堰に沿って堀状の地形が段丘上に続いており、道も折れがあることから、もう少し先まで城域であった可能性もありそうである。

段丘上北側。

蛇足かもしれないが段丘上北側は墓地が多い。その中に塚城の盛土が幾つかみられた。調べてないのでわからないが古墳群かなにかか。

段丘上から見た春日城。

鹿曲川東岸から見た、鹿曲川と向反の館。


2019、5月初訪

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...