立科町に大城(おおしろ)地籍があり、「じょう」と読まない事から「田代」の意とも解されるが、丘陵台地であることから城跡と捉えられているようで、周辺には、細丸・見戸・番馬などの地名があるという。
「信濃の山城と館」には、「たてしなの地名」に上記のほか、古老伝に「岩下氏居城の跡」というが芦田五十騎の一人岩下甚左衛門の手の者が芦田氏に属したとき、この辺に築城したという伝説も聞かないとあり、つまり城跡と思われるが史料が無く、岩下氏築城の伝承も確証がないということであるとある。
「信濃の山城と館」には、古来牧場と関連のあった地域で、牧場経営によって力をつけた土豪が点在したであろうことから、このあたりの開発領主が屋敷を構えたことは考えられるところであるが、軍事的な城砦とは趣を異にする類いのものと考えられる。としながら、ここには物証が全く見当たらないとある。
大城台地の南から東には芦田川が流れ、芦田川に沿って下ると望月氏領であろう畔田に出る。芦田氏か望月氏がこの道を監視する目的で砦など築いた可能性もあるという。
ただ、畔田側から見れば、もっと北の観音坂などから塩沢方面に出られるのでどうなのか。
これに関して「信濃の山城と館」に、北西1・5kmの西塩沢地籍に「狐の墓場」という地字があり関連が考えられるかとある。
「狐の墓場」の特定は出来ていないが、おそらく桐原との境の丘の墓地のところであろうか。
余談になってしまうかもしれないが、八重原の鍋蓋砦は著名であるが、それによく似た楕円の丘陵地形が桐原と西塩沢にもあり、筆者的にはすごく気になるところである。
八重原の鍋蓋砦は武田軍、或は徳川軍の陣を敷いたところといわれ、確かにそうであるのかもしれないが、他にも楕円地形が現在に残っているとなると、それだけのものでもない気がするのである。
北側斜面は大半竹林に覆われているが腰郭状の段が付き、下の道路が広くなって折れているところに石塔があり、登る道になっているようである。東の方に上れる道路があり、登ったところの西側には土塁状の盛土と石像があり、東側には古墳がある。
南側は傾斜のきつい土手で、やはり竹林に覆われよくは分からない。
台地となった東側の境界は全く不明で、大きく見れば台地全体が城域にも見えるが、実際には南の登り道が堀跡であったとみるのが妥当であろうか。
南の道路から見た大城。
南の道路からの坂道。
日の西側は竹林に覆われているが、おそらく西の石塔のところまで続くと思われる腰郭状の段がある。
石塔と石像が建つ事から造園の時の盛土とも思われないが、「信濃の山城と館」は触れていないので何とも言えないか。
盛土裏の南斜面。
一段の腰郭状の平地が続くのがわかる。
丘陵といった地形で、やはり南斜面には一段の郭状平地となっている。
最先端部の民家のところは鉤型に折れており、大手であつた可能性がありそうである。
西の狭くなっていく先端部付近の南斜面。
石塔のところの道が広くクランクになっているのは気を引く。この石塔から登る道になっているようで、段郭状平地の道にもなっているようである。
南の道路の東側。一方、西側斜面上一帯は畑地だが遺構らしきものは見当たらない。
西側から見た西側斜面。
写真には無いが、西側の田甫には集落の中から農業用水路が通っており、水源と思われる芦田川の上流には芦田城がある。
古老伝に「岩下氏居城の跡」といい、芦田五十騎の一人岩下甚左衛門の手の者が芦田氏に属したとも云われるようで、岩下氏は南北朝期の終わりごろか室町初頭に海野氏から分かれた岩下氏の関連の者かもしれない。そうなると、芦田氏もそもそもは滋野系芦田氏に関わるところで、後に依田系芦田氏に属すという流れになろうか。
よって大城の規模がはかれないのは前述したとおりである。
2019,6月初訪
0 件のコメント:
コメントを投稿