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2020年3月26日木曜日

常田毘沙門堂@上田市常田

創建、由緒等はよくわからない。
文政十二年(1829)のころ、「岩門大日堂」から移ってきた活文禅師が、堂の脇に「多聞庵」を開いたというので、それ以前にはあったことになる。
活文禅師が開いた「多聞庵」は大正11年(1922)に取りこわされたらしく、毘沙門堂も大正十五年(1926)に建てられたものらしい。
境内には、延命地蔵尊、地蔵菩薩、ほか石碑、毘沙門堂裏には無縫塔等があり、活文禅師関係では「龍洞鳳山禅師碑文」「鳳山禅師追福之碑」がある。

堂裏の無縫塔は数基あるので数代は住職がいたかもしれない。
「多聞庵」は毘沙門堂を利用したものなのか、別の建物であったのか手元に資料がないのでわからないが、どこかで「多聞庵」の見取り図というのを見た気がする。が覚えていない。

活文禅師は、安永四年(1775)松代藩の武士森五十三重喬の二男として生まれた。
10歳の時に和田村の信定寺に入り出家、二十五歳のとき長崎に留学し中国語や詩文、書画、一弦琴を学び、さらに江戸に遊学。
三十五歳のとき信定寺住職となり、45歳の文政二年(1819)上青木の「龍洞院」十三世住職となった。
五十歳の文政七年(1824)岩門大日堂に隠居し寺子屋を開き、この時期に佐久間象山は松代から一年間通ったという。
五十四歳の文政十二年(1829)常田の毘沙門堂に移り私塾「多聞庵」を開き、門弟は千余人といわれ、象山のほか赤松小三郎、高井鴻山、山寺常山、竹内八十吉などがいるとされる。
七十歳の弘化二年(1845)五月、毘沙門堂で生涯を閉じた。
遺骨は龍洞院と毘沙門堂に分納され、昭和3年「鳳山禅師追福之碑」建立された際に遺骨も埋葬されという。

門柱。

説明板。

境内。

延命地蔵尊。
単独の地蔵菩薩が仲間入りしていた。

かつて地蔵菩薩がいた…
…ところに「元気地蔵」ぴんぴん。

「龍洞鳳山禅師碑文」
「鳳山禅師追福之碑」
禅師の入寂は1845(弘化2)年5月28日で享年71。
遺骨は龍洞院と常田毘沙門堂境内の「鳳山禅師追福之碑」の下に分骨、埋葬されているという。

境内。

毘沙門堂。

境内三本の桜の木には名がつけられている。

堂裏の無縫塔と石塔。




2019、3月再訪

2018年6月30日土曜日

岩門大日堂@上田市岩門

大日堂跡と国分寺道跡

岩門城跡域にある。

この城跡を縦に突き抜ける国分寺道は、祢津街道から国分寺に詣でる古道であったという。


城跡内は「活文禅師遺跡三号岩門大日堂跡」として市指定史跡となっている。
幕末に活文禅師が隠棲し寺子屋を開いた場所で、佐久間象山が松代から通って教えを受けたことで知られる。
活文禅師は松代に生まれ、10歳で和田の信定寺で得度、のち長崎に遊学し対馬まで出かけ世界の大勢に目を向けた。45 歳で上青木の竜洞院の住職となったが間も無く辞し、51 歳で岩門に隠棲した(文政八年(1825))。
門弟は千余人といわれ、54歳で常田の毘沙門堂に移り、70歳で生涯を閉じた。
教えを受けた多くの子弟の中には高井鴻山や山寺常山がおり、幕末に活躍した多くの人材がいる。
当時の大きさは建物の構造から見て約70平米(21 坪)くらいと推定されている。庭には象山駒つなぎの松(2代目)がある。

象山駒つなぎの松

文政十一年(1828)活文禅師に弟子入りした象山は、この時十七歳の青年の志士で、松代から馬で地蔵峠を越え訪れていたという。

堂内。当時の大日堂はもっと小さかったと推測されている。

岩門集落


2017、春

2017年12月19日火曜日

岩門城@上田市古里岩門


土塁跡に建つ正一位稲荷
岩門城・本城・堀の内とも。
伝承も記録も不明ながら成立は鎌倉時代末までさかのぼるともいわれる。
鎌倉時代に地頭として赴任した太田氏の居館が起源という説もあるが詳しいことはわからない。武田信玄が村上義清を攻めたときに岩門城の城将は逃亡したと伝わる。

「信濃の山城と館〈3〉上田・小県編」(宮坂武男氏)には、
「中世から岩門の村が存在しているので、ここに居城した豪族がいたことが考えられる。」「このあたりを所領した豪族は海野氏、太田氏、小宮山氏などがあるが、これらの氏人に関連のものであろうか。」とし。また、「岩門神社が鬼門に当たり、何らかの施設があったと思われる。」としている。
岩門神社l参照

武田信玄が村上義清を攻めたときに岩門城の城将は逃亡したと伝わる。とされるが、領主一族の諸流がその地に残り帰農したと思われる例も見られ、その家臣に於いても同様である。もっとも、それが許される情勢であればだが。

推察をかくと、鎌倉時代に地頭として赴任した太田氏、或は海野氏代官小宮山氏あたりが築き、村上氏の小県侵攻により近くの染谷城ともども村上氏配下の者により使用された。やがて武田氏により村上氏が越後に落ちると武田氏の武将真田氏の支配下に置かれ、おそらくは真田配下の者たちが入城したのだろう。
徳川との上田合戦に染谷城が使われていることから、戦国末期、真田氏の松代移封までは岩門城も機能していたのではないだろうか。
因みに岩門の南、染谷台の南端、現国分寺裏の段丘上にある「国露津穂神社諏訪宮」が岩門城に附属する要害っぽいのだがどうであろう。また常田池段丘上、古里の長福寺も要害っぽい立地である。こちらは染谷城と連動していたのではないだろうか。

以上の推察は素人である筆者には根拠を示すこともできないが、地元が近い故の昔からの疑問である。


岩門神社が茅野家に関わるのではとしたが、岩門城周辺の探索をしたところ、堂の坂の墓地には香山家と坂口家があり、香山家は墓石からみても6家はあり、岩門集落を中心に小里地域に18戸程ある(苗字でポン調)。家紋は丸に三っ引。
坂口家は岩門集落周辺に幾らかが散在する程度で、丸に片喰である。
この2氏が岩門城に関わるものか確証はないが、おそらく江戸初期にはこの地に在ったと思われる氏族で、真田、村上、海野らのどの時代かで浅からず関わったのではないだろうか。

また、岩門城の南に岩門集落の氏族と思われる共同墓地があり、やはり岩門城の歴史に関わる可能性があることからこれらを記して後の考証に付したい。

岩門神社の直下の土手に
茅野家    梶    1基    
岩門城の直下の土手(堂の坂)に
香山家    三っ引    6基 
坂口家    片喰    1基
岩門城から南に離れた土手に
茅野家    梶    5基
宮島家    橘    5基
宮島家    抱き茗荷    1基
荒井家    蔦    1基
竹内家    九枚笹    1基
堀家       三つ割り菊 ?   1基
杉浦家    三本杉    1基
内川家    橘    1基
佐藤家    源氏車    1基
斎藤家    不明    1基
渡辺家    不明    1基
さらに南の離れた土手に
平林家    三つ星    1基

1基2基としているが、○○家など近年の一族の墓石を数えたもので、○○衛門など個人の墓数を数えたものではない。よって戸数はもっと多い可能性がある。
また、岩門城周辺の集落のほかに岩門地籍は広く、全てを把握しているものではなく、下の河原や田畑のどこかには、まだ他家の墓所もあるかもしれない。

これら氏族はおそらく真田時代にを起源にするものと、それ以前からの土着のものとが居ると思われるが、他地域の氏族の流れ等と照らし合わせることで、中世世界に対する何かしらのがイメージ出来ればと思うものである。



 ③辺りから④の小字名、本城方面をみる。
北側のホリノ内
 絵地図上の④の北側のホリノ内。左に見える土塁跡から右手の髙くなる段差まで10m程が堀跡と推定されている。

ホリノ内
 絵地図上の⑤の北側のホリノ内に当たるところ。幅10mの堀跡とされている。

土塁跡
 「信濃の山城と館〈3〉上田・小県編」(宮坂武男氏)では、堀跡(ホリノ内)の北側の土塁は、ここから正一位稲荷の土塁遺構まで東西に約90m繋がってあったとしている。

土塁跡に建つ庚申塔
 絵地図上の⑤辺りの土塁跡に建つ庚申塔や道祖神らしき石仏。

西側の堀跡
 絵地図上の⑤辺りから南側を見たところ。城の西側の堀跡とされている。
右手の民家の祠は氏神だろうか、朽ちかけているが立派な祠が祀られていたと思われる。

秋葉神社
 絵地図上の⑤辺りにある土塁上の秋葉神社。火伏せの神として城跡にあることが多い。
秋葉神社裏の堀跡

小字名、本城
 絵地図上のウブヤ方面から見た④の小字名、本城。石積は新しいものだと思うが一段高くなっている。本郭跡と思われる。

 ウブヤと堂の坂の間の堀切。堂の坂は堀切跡にできたものだろう。
堂の坂
 下の畑につながり、対岸の蒼久保の人達が神川を渡り堂の坂を登り、上田への従来に使ったという。
堂分と思われるあたり
堂分と堂坂の周辺
 堂分の地名はこの辺りまでが堂(大日堂か)の敷地を表すものだろうか。
「信濃の山城と館〈3〉上田・小県編」(宮坂武男氏)では、この辺りは南側の堀とし、そのまま堂の坂に竪堀として落ちている。
また大手の場所は判断し難いが、この辺りの堀に折れがあるので、そのあたりが虎口であったかもしれないとしている。


宮の坂

絵地図上の③の宮の坂。岩門神社と岩門城の間にあり、ホリノ内の堀から竪堀となり神川へ落ちている。
岩門神社l参照
東斜面の郭跡
絵地図上の③の宮の坂の南側の急斜面にある郭。
「信濃の山城と館〈3〉上田・小県編」(宮坂武男氏)にあるように、奥にもう一段ある。
東斜面の郭跡

郭のある東側は神川ががつくった段丘で、その斜面はもはや崖である。

その他の遺構として、「信濃の山城と館〈3〉上田・小県編」(宮坂武男氏)では、絵地図上の④の北側のホリノ内とウブヤの境あたりに竪堀や数段の郭が描かれているが、今回は見られなかった。

岩門城想像図
「信濃の山城と館〈3〉上田・小県編」をほぼトレースした絵図。


国分寺道跡
国分寺道跡の地蔵菩薩
絵地図上の⑥の地蔵菩薩。国分寺道の脇に建つ。

大日堂跡と国分寺道跡
この城跡を縦に突き抜ける国分寺道は、祢津街道から国分寺に詣でる古道であったという。

 また、城跡内は「活文禅師遺跡三号岩門大日堂跡」として市指定史跡となっている。
幕末に活文禅師が隠棲し寺子屋を開いた場所で、佐久間象山が松代から通って教えを受けたことで知られる。
当時の大きさは建物の構造から見て約70平米(21 坪)くらいと推定されている。庭には象山駒つなぎの松(2代目)がある。

岩門集落



2015年10月

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...