2019年2月22日金曜日

柏崎地蔵尊@長野市長野新町


新町天神社。

案内板はあるが、どこなのかわからない。
門の内を覗き込むと、あった。

謡曲「柏崎」のことはよく知らないが、興味のある方は調べてみてほしい。
善光寺で母親と再会した花若の供養の為のものと伝わる。


善光寺七名所七塚の一つに、柏崎塚(かしわざきづか)がある。
柏丸塚(かしわまるづか)とも。『地震後世俗語之種』には「かはらざき」と振り仮名が附ってある。新町の南、伊勢町との境付近にあったことは複数の文献に見えるが、『長野繁昌記』発行年の1903年(明治36年)当時、すでに跡形もなくなっていたという。現在は新町の地蔵庵に石塔と柏崎地蔵があり、これを伝える。謡曲「柏崎」の登場人物、柏崎の塚と伝えられている。(Wikipedia)

また、新潟県柏崎市西本町の香積寺境内には柏崎親子三人の墓と供養塔があるという。




2019、2月初訪

2019年2月19日火曜日

国定忠治の墓@長野市鶴賀権堂町


秋葉神社境内の西側奥に侠客「国定忠治の墓」がある。
すぐ横は四条霊社
権堂町は昔から善光寺門前の花街であり、それらを偲ぶ史跡といえる。
また東鶴賀町に在った「鶴賀新地」は明治11年(1871)に公娼制度によって、権堂町にあった遊郭が移されたのだという。

国定忠治の墓は権堂村在住の島田屋伊伝治と友人で、たびたび権堂に訪れたといわれている国定忠治の遺骨を、1967年(昭和42年)に群馬県から分骨したものという。

「赤城の山も今宵限り…」が有名だが、権堂にも「山形屋に乗り込んで父娘を救った忠治は、道で待ち伏せていた山形屋藤蔵たちを無言のまま斬り倒して去って行く…」という劇の場面があるそうで任侠物が好きな人には堪らないのでは。
権堂には忠治ゆかりの柳の木があったが昭和40年に切られてしまい、代わって昭和42年に権堂秋葉神社の境内に忠治の墓が作られたという。
最近、忠治の柳が秋葉神社に植樹されたというが未確認。









2019、2月初訪

四条霊社@長野市鶴賀田町

四条霊社は秋葉神社境内の西側奥にあり、すぐ横には侠客「国定忠治の墓」がある。


四条霊社
明治三十九年に創建。
料理の祖 神磐鹿六雁命と四条流包丁道の祖 四条山蔭中納言藤原政朝卿を祭神とする。
包丁・料理の神様として、全国に京都と長野二社だけという。
 拝殿の天井には、鯛や鮎などの見事な魚の絵が描かれている。

祭殿。包丁は見えるが天井絵は見えなかった。

本殿。

権堂町は昔から善光寺門前の花街であり、それらを偲ぶ史跡といえる。
また東鶴賀町に在った「鶴賀新地」は明治11年(1871)に公娼制度によって、権堂町にあった遊郭が移されたのだという。



2019、2月初訪



秋葉神社@長野市鶴賀権堂町

権堂アーケード通りに面した鳥居と勢獅子が印象的。


勢獅子(きおいじし)は、明治4年に長野県の誕生を祝して始まった獅子舞。市の指定無形民俗文化財である。30kg以上ある大きな獅子頭による暴れ獅子で、弥栄神社御祭礼の際に屋台巡行と併せて舞われるほか、善光寺御開帳などの際にも舞われる。桜枝町・松代町松代伊勢町・篠ノ井内堀・篠ノ井芝沢などにも権堂から派生した勢獅子が伝わる。(Wikipedia)




拝殿
祭神・軻遇突智命(かぐづちのみこと)。火伏の神様である。

ネット情報では、はじめ権堂の西の往生院境内にあったが、弘化4年(1847)大地震で焼失。
安政2年(1855)遠江国秋葉山から神像を勧請し、裏権堂通りに移り、慶応2年(1866)現本殿が完成。
明治27年社地が道路にかかることとなり、権堂町は社地約400坪を売って現在地に1000坪の土地を求めて移転、拝殿は明治30年にできたという。

慶応2年(1866)現本殿完成とあるのに、明治27年現在地に移転の意味がよく分からないが、現本殿を中心とした境内であることに違いはないものということか。

境内には四条霊社国定忠治の墓がある。

西側奥には四条霊社
料理と包丁の神様という。

四条霊社近くには国定忠治の墓
権堂村在住の島田屋伊伝治と友人で、たびたび権堂に訪れたといわれている国定忠治の遺骨を、1967年(昭和42年)に群馬県から分骨したものという。

縁起碑と三猿の石祠。


北西の入口。






2019、2月再訪

樋下稲荷神社@長野市三輪


祭神保食神(うけもちのかみ)
該社は元橋場使徒 坂田佐吉 なる者の私社なるを 明治13年10月15日別に社地を取説け(現在地)移転、 公称を出願し、同年10月19日願意御聞届けに相成。

西洋風の石燈籠。謂れは知らない。






自然の湯福川と、用水堰である鐘鋳川が交わる場所があり、大雨の度に土砂で埋まるため「土揚場」といわれるらしい。
木樋を架けて湯福川の下に鐘鋳川を流したことから「樋ノ下」という地名がきたという。
その近くに樋下稲荷神社はある。

2019、2月初訪

2019年2月15日金曜日

幣川神社@長野市篠ノ井御幣川

創立慶長年間。水田の開墾する黄金の幣、高さ5~6寸なり。掘出せし彫文有り八幡宮の三字、甲越戦争の際も村名定まらず、金幣得るを似て八幡宮と称し御幣川とす。正徳に至り金幣賊に掠奪される。後、新幣を模造して神霊とす。口伝なり。(長野県神社庁HP)
祭神は誉田別命
鳥居横には歯痩医殿がある。


参道

本殿


相原文哉先生(郷土史研究・長野市伝統環境審議会会長他)による「篠ノ井の古建築調査会」一行5名による神社の調査が7月4日に行われました。調査は拝殿及び本殿を中心に行われ、時間の都合で末社等は後日の調査となりました。先生方も立派な建築に接し感動され、説明にも力が入り時間が予定を上回る結果になりました。この機会に、先生が特に注目されたものの中から一部を紹介し、区民の皆さまに機会をみてご鑑賞を頂きたいと思います。 1.屋根について この時代、瓦屋根の社は珍しく、特に箱棟(屋根の最上部)の意匠は素晴らしい、巴の紋章は八幡宮の証し、火災水難の願いが込められている。また両端の鯱(しゃち)も珍しく貴重なものである。近くでは柳原神社(中御所)や長国寺(松代)に見られる程である。 1.彫刻について 立川流彫刻棟梁清水与作の作品は先生も高く評価されており、このような作品がここ御幣川に存在することに驚かれていた。絶賛され説明に熱がこもり時を忘れるに至った。 ○ 「向拝」(ごはい)社殿入口の部分のことで、向拝柱の面取りも正しく、その上の欄間の一対の龍の彫り物、両端の見返獅子ともその大きさと出来栄えは素晴らしいものです。 ○ 拝殿の正面、側面の彫刻は透かし彫りで、中心に波と亀、隣に末と小鳥、側面には竹と梅が刻まれ、それぞれが阿吽や左右の均等が保たれ作品の見事さと作者の意気込みが伝わってきます。 ○ 「手挟」(たばさみ)拝殿入口正面の回廊の上、「海老虹梁」(えびこうりょう・曲がった梁)の上に取り付いている彫り物で、菊の花を大胆に彫り上げている、「籠彫り」(かごほり)の手法でこれだけの厚みのある作品は大変貴重なものであり、目に付かない所にあることがかえって重厚さを感じる逸品である。一度は是非ご覧いただきたいものである。(幣川区hp)

とあるが、金網でほとんど見えない。

境内社



2019、1月初訪

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...