ラベル 薩摩氏居館 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 薩摩氏居館 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2019年12月16日月曜日

伝薩摩氏居館跡@埴科郡坂城町御所沢

薩摩氏が坂城郷の地頭職であったことは、嘉暦四年❨1329❩の北条高時の諏訪社御頭結番下知状に依って明らかであり、それが工藤祐教の子祐長にはじまるかと考えられ、祐長の歿後、坂城北条は祐長の子八郎祐氏に、同じく南条は十郎祐広に分与されたことは工藤二階堂系図によって知られる。また、市河文書の建武二年❨1335❩九月二十三日の市河経助軍忠状によって薩摩氏が坂城郷の地頭であったことが裏書されるがその居館については明らかにすることはむずかしい。
坂城町内で薩摩氏の居所と考えられるところの一は御所沢である。田町の東方に登城口・鍛治裏の小字、御所沢には鎌倉・嵯峨・下木戸などの小字を残しているが、何れも館に因んだ字名である点が注目される。鎌倉は御所沢区の中央を西流する入田川の南にあって、今は葡萄園や畑地になっているが、南には堀跡と考えられる凹地が南北に続き、北の入田川の南岸に土塁の跡と思われるところがあり、その北の入田川両岸はかなり広まり、かつ人為的に掘り広めたごとき形跡が判然としている。
御所沢の北方、蓬平の南部に属するところは、北方に山を負い、東と西は共に小断崖になり、その奥に修善寺跡と伝承する地があって、ここは南方ね開いて、東北西の三方が高地にかこまれ、鎌倉式地形に酷似している。
或いは入田川の南に館があり、川を隔てた山際に寺があったものと推定されるので、ここ御所沢一帯が館及び附随の寺及び墓地があったものと思われる。❨「坂城町誌」より❩

「…入田川の南岸に土塁の跡と思われるところがあり、その北の入田川両岸はかなり広まり、かつ人為的に掘り広めたごとき形跡…」はここと思われる。
写真三枚目の中央奥が土塁状で石祠が建ち、入田川がそこで折れている。

「…南には堀跡と考えられる凹地が南北に続き…」がどこかわからない。
写真の凹地は南に葡萄園を経たところだが、東西に続くものであるし入田川土塁跡から200m程も離れている。
また南の葡萄園内にも土塁と思われている石積みがあるが、これらをひとつの居館遺構とするには無理があるか。


伝承によると鎌倉時代の地頭職であった薩摩氏の遺跡に位置づけられ、周辺には鎌倉・嵯峨・ 下木戸など館に関連のある地名が多く存在し、堀や土塁と思われる痕跡が残っている。また、北方には修善寺跡の伝承地があり、一帯は鎌倉式地形に酷似している。
昭和20年代に小屋建設の際に宋銭、明銭が数十枚まとまって採集されており、採集された宮沢義茂氏所有の宋銭では、嘉祐通宝 (1056)がもっとも古く元祐通宝 (1086)が最も新しいので、薩摩氏の居住したと思われる年代と合うが、明銭については洪武通宝 (1368) が古く、宣徳通宝 (1426)が新しいため、鋳造年代より薩摩氏以後に居住したと考えられる村上氏と関係があると思われる。(「長野県埴科郡坂城町 町内遺跡発掘調査報告書 1994年3月30日」坂城町教育委員会)

この平成6年5月に遺跡範囲確認調査では、土塁と思われる石積みの西側に位置し、居館跡伝承地の外側をトレンチ調査しているが、居館跡に関連する遺構・遺物の存在は確認できなかったようである。
また、伝承地の外側と言っているので、教育委員会では東側の石積みよりさらに東側に居館跡を想定しているようでもある。
南西から見た。
試掘トレンチ設定図には4ヶ所の石積みが記されている。
そのうち南側の石積みは至近に確認できる。他は畑地所有者に許可を頂かないと近寄れないようだが、遠目でも確認はできる。
「坂城町誌」のいうところでは、入田川を北の堀と位置づけているようで、居館跡を当時の標準的な100m四方とした場合に1994年の発掘調査は確かに居館跡推定地の外側になるのかもしれない。


伝薩摩氏居館跡と修善寺跡付近図。
北には琴平山と修善寺跡地方面。
写真は発掘調査場所付近で、ここからは遠く見えるが、入田川からだと修善寺跡は目と鼻の先である。「坂城町誌」にあるように、入田川の南に館があり、川を隔てた山際に寺があったものと推定される。
遺跡が薩摩氏の居館跡である保証はないが、修善寺跡との関係は無視できない。


祐長と北条を分与された八郎祐氏の居館は仮にここで良いとして、南条を分与された十郎祐広の居館はどこであったろう。それを言及した資料を知らないが、横尾の観音坂城や金井内畝の居館跡が考えられるかもしれない。


2019、12月初訪

2019年12月11日水曜日

修善寺跡@埴科郡坂城町御所沢

現満泉寺のある「村上氏居館」と、御所沢にあった「満泉寺」は、天文二十二年(1553)八月に葛尾城が落城し村上義清が越後国へ落ちたとき共に焼失した。
天正十年❨1582❩「本能寺の変」で森長可が信濃を去ると、上杉氏が北信濃を領有。山浦景国(村上国清)は海津城主となり父義清時代の旧領を回復。そのとき居館跡に満泉寺を移設再建したという。

満泉寺は初め「修善寺」といった。
寺伝では、応和三年❨963❩、天台僧延昌により御所沢に創建され、初め修善寺といい、後村上氏代々の菩提寺となったという。


因みに、御所沢には北条党の薩摩氏の居館跡と伝わる「伝薩摩氏居館跡」がある。薩摩氏と修善寺との関係もあったものと思われる。
御所沢の北方、蓬平の南部に属するところは、北方に山を負い、東と西は共に小断崖になり、その奥に修善寺跡と伝承する地があって、ここは南方に開いて、東北西の三方が高地にかこまれ、鎌倉式地形に酷似している。修善寺跡と称する地は平坦て、その南端に雨落と考えられる東西に走る細溝があり、その西南一段低いところは寺の庫裡でもあった所と考えられる平地があって東北隅に古い井戸跡を残している。寺地と考えられる西南の山腹には夥しい数の五輪塔出土地があって、無慮七・八十基分の一石造りの風空輪と地輪・水輪・火輪が散在している。
或いは入田川の南に館があり、川を隔てた山際に寺があったものと推定されるので、ここ御所沢一帯が館及び附随の寺及び墓地があったものと思われる。(「坂城町誌」)

寺伝を信じるなら薩摩氏が坂城郷の地頭となるより前から在ったはずであるが、位置的に薩摩氏と無関係な筈がなく、また後の村上氏菩提寺となった経緯からも修善寺のこの地域に於ける意味がうかがえる。

「寺地と考えられる西南の山腹には夥しい数の五輪塔出土地」から集められた五輪塔が無造作に無造作に置かれている。案内板には、嵯峨地籍から出たこと、出土した一部であること、大日堂跡と経塚があったことが書かれている。
嵯峨地籍、大日堂跡と経塚がどこかはわからないが、付近であろう。
隣接する瑠璃光殿。

「南端に雨落と考えられる東西に走る細溝があり、その西南一段低いところは寺の庫裡でもあった所と考えられる平地があって東北隅に古い井戸跡を残している。」は確認できなかったが「西南一段低いところ」は写真のところか。

御所沢の修善寺跡付近には、「塔の平」、「シャガ❨志賀❩」の地名があって、「シャガ」は修善寺があったとある所で、「塔の平」には村上顕国の墓❨「村上顕国の碑」❩と村上関係家臣の墓という十基の墓石があり、村上氏の霊廟があったという。
「名将村上義清」❨水出熊雄❩によると、御所沢の修善寺跡は、もとは琴平山の奥の山上、「修善寺」から訛った言葉という「ステッチ」と呼ばれる地域から瓦の破片風のものや土器片、焼け土の塊のようなものが収集されており、寺があって焼けたと推測され、後に山麓の修善寺跡に移ったのではとし、修善寺より289年前の674年に「坂城神社」が創建されていることから、「村誌」の応和三年❨963❩、より早い創建である可能性が高く、竹鼻家系図などから15年以前は遡るのではと考察している。

西側の山が琴平山で山上には古墳のような高台があって石祠が祀祀られている。琴平山だけに金比羅社であろう。
琴平山。おそらく「ステッチ」と呼ばれるところで、修善寺跡はもとはここにあったともされる。
もとの修善寺跡かどうか筆者には判断出来ないが、琴平山はなにより見晴らしが良く、高台の北側には堀状の地形があることから、いつの時代かに見張り台であった可能性があるのではないか。

山上南側には秋葉社もある。
稲玉家氏神という石柱があった。

更に奥には琴平山奥社がある。

東側の山が塔の平で墓地となっているが、村上顕国の墓❨「村上顕国の碑」❩と村上関係家臣の墓という十基の墓石があり、村上氏の霊廟があったという。
顕国は義清の父で、佐久郡岩村田大井氏大井光照を攻め滅ぼし、佐久に侵入する甲斐武田氏と戦い、北信濃にも勢力のあった人物で、「村上顕国の碑」は修善寺を改宗し中興開基した功績を留めるべく後の満泉寺住職朝宗が宝暦十二年(1762)に建てたものという。


また「名将村上義清」では、平安末期の応和三年❨963❩創建は、村上顕清(源顕清)が寛治八年(1094)(嘉保元年)に村上郷へ配流(「尊卑分脈」)(異説あり)された年の131年前になるとし、「泉徳寺文書」(義清公御本尊縁起)に「天徳四年(960)の秋、村上天皇の第四皇子(為平新王)が当国の国司となって坂城に居られ…やがてお城の近くにお堂を建てられた」旨があり、「御所沢」の「御所」と「為平新王」の関係が注目され、「天徳四年(960)…やがてお城の近くにお堂を建てられた」の「…やがて」は、修善寺創建の応和三年❨963❩に対応するとも考察している。

坂城小学校校庭のところにあったという、「込山廃寺」が同じく平安時代とされ至近であることと、近くにあったろう為平新王のお城が気になる。

筆者は確認していないが、「更埴人名辞書」に、養和三年(1183)四月、明国は坂城御所沢に修善寺を開基とあり、村上明国の中興開基が窺え、同書に、明国は屋代に居るとも、更級郡坂城に居るともし、「屋代記」に明国坂城を知行す。「市川文書」に明国及びその子頼時坂城住とあると「名将村上義清」にはある。

しかし鎌倉期おそらく坂木郷には薩摩氏があって、建武二年(1335)に村上信貞が市河氏と坂城の薩摩氏を攻めている(「市河文書」)し、村上氏が坂城に移ったのはそれ以後、「更級郡誌」等では元中年間❨1384~1391❩以後であろうとされている。


永正元年❨1504❩、村上顕国志願に因って天台宗を曹洞宗に改宗、上州甘楽郡長楽寺三世の宝室見尊禅寺を請じて中興開山とす。❨「村誌」❩
村上顕国により改宗し禅宗満泉寺を中興開基(更埴人名辞書)とも伝わる。

義清が父顕国の法号満泉院殿にちなんで村上山満泉寺と改めた。❨「村誌」❩
天文二十二年(1553)義清の越後落ちに伴い焼失。
天正十一年❨1583❩、義清の子国清❨景国❩によって現在地、村上氏居館跡に再興した。

以上が御所沢にあった頃の「満泉寺」、すなわち「修善寺」の沿革になろうか。





2019、12月初訪

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...