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2019年12月11日水曜日

満泉寺@埴科郡坂城町大字坂城

満泉寺は村上氏の居館跡に建てられた寺で、元は御所沢にあり、古くは修善寺といった。
現満泉寺のあるところは館跡の本郭にあたり、南北150m、東西170mに及ぶ回字形に堀を巡らしていたとされる。
館跡については村上氏館跡で。

村上山と号し、本尊は釈迦如来、曹洞宗上野国甘楽郡西之牧村長楽寺末寺であった。
寺伝では、応和三年❨963❩、天台僧延昌により御所沢に創建され、初め修善寺といい、後村上氏代々の菩提寺となった。
修善寺は永正元年❨1504❩、村上顕国の志願により曹洞宗に改宗、上州長楽寺三世の宝室見尊禅寺を請じて中興開山となし、顕国の法号満泉院殿にちなんで村上山満泉寺と改めた。天文二十二年❨1553❩、武田信玄の侵攻による葛城落城の際兵火にかかり焼失した。天正十年❨1582❩、上杉氏が川中島四郡を領した時、義清の子国清❨景国❩は上杉氏の命により松代海津城将となり、翌十一年❨1583❩、坂木に帰り、村上氏累代の墓所御所沢の満泉寺の荒廃を見て、先祖の冥福を祈って村上氏居館跡、木の下の現在地に寺域を移し緒堂を再興した。
本尊の石造釈迦如来座像は、もと修善寺の本尊で鎌倉末期の様式をもつものという。
刈屋原の泉徳寺、小県秋和の長昌寺は満泉寺の末寺として建立されたという。(「坂城町誌」)

門柱と「村上氏の居館跡」の石碑。

直角に折れた参道と石碑たち。


山門。

鐘楼。

本堂。


現満泉寺のある「村上氏居館」と、御所沢にあった「満泉寺」は、天文二十二年(1553)八月に葛尾城が落城し村上義清が越後国へ落ちたとき共に焼失した。
天正十年❨1582❩「本能寺の変」で森長可が信濃を去ると、上杉氏が北信濃を領有。山浦景国(村上国清)は海津城主となり父義清時代の旧領を回復。そのとき居館跡に満泉寺を移設再建したという。

御所沢にあった「満泉寺」は初め「修善寺」といった。
御所沢の修善寺跡付近には、「塔の平」、「シャガ❨志賀❩」の地名があって、「シャガ」は修善寺があったとある所で、「塔の平」には村上顕国の墓❨「村上顕国の碑」❩と村上関係家臣の墓という十基の墓石があり、村上氏の霊廟があったという。❨「名将村上義清」❨水出熊雄❩❩

永正元年❨1504❩、村上顕国志願に因って天台宗を曹洞宗に改宗、上州甘楽郡長楽寺三世の宝室見尊禅寺を請じて中興開山とす。❨「村誌」❩
村上顕国により改宗し禅宗満泉寺を中興開基(更埴人名辞書)とも伝わる。

義清が父顕国の法号満泉院殿にちなんで村上山満泉寺と改めた。❨「村誌」❩

天文二十二年(1553)義清の越後落ちに伴い焼失。
天正十一年❨1583❩、義清の子国清❨景国❩によって現在地、村上氏居館跡に再興した。





2019、10月初訪

2019年12月5日木曜日

村上氏館@埴科郡坂城町大字坂城木の下

葛尾城の南山麓、村上氏の菩提寺満泉寺とその周辺を含めた南北 160m、東西 170mのほぼ方形をなす地域が村上氏代々の居館跡で、この周囲には壕の形跡を残しています。満泉寺地が館の中心で、内堀内にあたり、館の外回りにも堀をめぐらした回字形の館であったと考えられています。坂城神社は乾(北西)の方角にあたり、 艮 (東北)の方角に天福寺(村上氏の祈願寺・天台宗 、現曹洞宗大英寺 )、 巽(南東)方向に蔵屋敷の地名を残し、館跡の北西隅に厩屋敷、東北に栗田(村上氏の支族)、南方に下長屋の地名を残しています。西方の中ほどに、お堀橋という所もあります。(坂城町HP)


たしか、書籍「村上氏フォーラム」の中で笹本正治氏は、中世の館には凡そ規格があって170mにも及ぶ館というのには疑問がある旨の話しがあったと記憶しているが、成程、100m四方程の居館跡は確かに多い。
満泉寺の北側にはかつて土塁が残っていたらしく、それが北側の堀でそこから満泉寺を含めた南側一帯100m四方を居館跡と仮定すると違和感はない気がする。
但し、最終的に外郭と堀を拡張し回字形の城館になった可能性はありそうである。

村上氏が何時からここを居館にしたかは記録がない。
建武二年(1335)北条党に味方した薩摩刑部左衛門入道らを坂城北条の城に攻め落としたことが「市川文書」にあるが、それまで村上氏は千曲川西岸の村上郷が本拠地で、坂城に移ったのはそれ以後、「更級郡誌」等では元中年間❨1384~1391❩以後であろうとされ、「坂城町誌」でも元中元年、或は南北朝合一の元中九年❨1392❩❨明徳三年❩と考えられている。
そして村上氏が葛尾城を築き、周囲を要害城で防備したのは文明(1469~1487)以後ではないかと考えられている。❨「坂城町誌」❩

つまり、応仁の乱(応仁元年(1467)から文明九年(1478))の後、戦国時代に葛尾城を築き、その麓に居館を置いたのが現満泉寺のある館ということになりそうだが、村上氏が坂城に移った元中元年(1384)、或は南北朝合一の元中九年❨1392❩からここが居館であった確証はない。
村上氏居館は御所沢にあったという説もあるようである。❨「名将村上義清」❩

村上氏居館は、天文二十二年(1553)八月に葛尾城が落城し村上義清が越後国へ落ちたときに、御所沢の満泉寺と共に焼失。
後、天正十年(1582)、上杉景勝川中島四郡領有の時代、村上義清の子・村上国清(山浦景国)が海津城の城代を務めたとき居館跡に満泉寺を移設再建したという。


因みに、葛尾城は北条党に味方した薩摩氏らの坂城北条の城が前身との説もあり、御所沢には伝薩摩氏居館跡がある。
また、御所沢には満泉寺の前身である修善寺と、村上氏の廟もあったという。❨「名将村上義清」❩
館の中心にあたる満泉寺本堂。

満泉寺から見た葛尾城。
写真手前は本堂横の畑地で内堀内。



居館跡の石碑。

推定外郭の北東隅から。
本堂屋根、葛尾城尾根、遠く出浦城も見える。

推定外郭の東南隅。
幸橋が見えるが、日名沢川の谷は意外に深い。


推定外郭の南面。
如意輪観音。


推定外郭の南西隅。
西面の道は坂城神社参道でもある。

西面の満泉寺入口。

坂城神社鳥居。

この鳥居のところの斜めの水路が気になる。
お堀橋という所はここかも。



鳥居のところからの斜めの水路の一端は、満泉寺本堂裏に通っている。
北側にはかつて土塁があったというので、堀の名残かもしれない。


推定外郭の北面から。本堂屋根。


推定外郭の北東隅。


中世北信濃の雄、村上氏の居館跡である。


2019、10月初訪

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...