たしか、書籍「村上氏フォーラム」の中で笹本正治氏は、中世の館には凡そ規格があって170mにも及ぶ館というのには疑問がある旨の話しがあったと記憶しているが、成程、100m四方程の居館跡は確かに多い。
満泉寺の北側にはかつて土塁が残っていたらしく、それが北側の堀でそこから満泉寺を含めた南側一帯100m四方を居館跡と仮定すると違和感はない気がする。
但し、最終的に外郭と堀を拡張し回字形の城館になった可能性はありそうである。
村上氏が何時からここを居館にしたかは記録がない。
建武二年(1335)北条党に味方した薩摩刑部左衛門入道らを坂城北条の城に攻め落としたことが「市川文書」にあるが、それまで村上氏は千曲川西岸の村上郷が本拠地で、坂城に移ったのはそれ以後、「更級郡誌」等では元中年間❨1384~1391❩以後であろうとされ、「坂城町誌」でも元中元年、或は南北朝合一の元中九年❨1392❩❨明徳三年❩と考えられている。
そして村上氏が葛尾城を築き、周囲を要害城で防備したのは文明(1469~1487)以後ではないかと考えられている。❨「坂城町誌」❩
つまり、応仁の乱(応仁元年(1467)から文明九年(1478))の後、戦国時代に葛尾城を築き、その麓に居館を置いたのが現満泉寺のある館ということになりそうだが、村上氏が坂城に移った元中元年(1384)、或は南北朝合一の元中九年❨1392❩からここが居館であった確証はない。
村上氏居館は御所沢にあったという説もあるようである。❨「名将村上義清」❩
村上氏居館は、天文二十二年(1553)八月に葛尾城が落城し村上義清が越後国へ落ちたときに、御所沢の満泉寺と共に焼失。
後、天正十年(1582)、上杉景勝川中島四郡領有の時代、村上義清の子・村上国清(山浦景国)が海津城の城代を務めたとき居館跡に満泉寺を移設再建したという。
因みに、葛尾城は北条党に味方した薩摩氏らの坂城北条の城が前身との説もあり、御所沢には伝薩摩氏居館跡がある。
また、御所沢には満泉寺の前身である修善寺と、村上氏の廟もあったという。❨「名将村上義清」❩
推定外郭の東南隅。
幸橋が見えるが、日名沢川の谷は意外に深い。
この鳥居のところの斜めの水路が気になる。
お堀橋という所はここかも。
鳥居のところからの斜めの水路の一端は、満泉寺本堂裏に通っている。
北側にはかつて土塁があったというので、堀の名残かもしれない。
推定外郭の北面から。本堂屋根。
推定外郭の北東隅。
中世北信濃の雄、村上氏の居館跡である。
2019、10月初訪
0 件のコメント:
コメントを投稿