時の大官長谷川安左衛門利次と、村上の旧臣出浦正左衛門によって、義清の死後凡そ百年、義清の玄孫義豊の代に建てられたもので、越後五智の光源寺から分骨して埋葬したと言われている。
また、名家の遺跡のなくなるのを嘆いた長谷川安左衛門などは、この墓同時に往来の入口の石柱も建てたという。
村上義清は、元亀四年(1573)正月、糸魚川の根知城で病死している。(『寛政重修諸家譜』では、越後国魚沼郡赤沢城にて没)七十三才。戒名は「日滝寺殿正四位前羽紅雲正清公大禅定門」。
因みに、この三か月後に上田原や戸石城で激戦を交わした武田信玄も死んでいる。
村上義清の墓は越後五智の光源寺にある五輪塔であるといわれているが、一説には、義清が父の冥福を祈って建てたものとも言われている。
義清の墓は他に、越後春日山城麓の林泉寺、信濃の芋川にある村上氏墓地、そして、ここ坂城町田町に供養塔があるが、何れも供養塔という。
石柱と門柱、どれがどれか分からないが、右の穴の空いたのが石碑にある門柱かと思われる。
これが長谷川安左衛門などが建てたという往来の入口の石柱か。
明治三十二年七月 閻魔堂(十王堂)に子守りをしながら勉強する坂城小学校の特別学級が開設された。
十王堂の説明板にある、遊郭の少女達の教育の場として使われたことを言っていると思われる。
坂木宿は旧北国街道の宿駅として栄え、旅籠には飯盛女も置かれ隆盛を誇ったといい、明治時代には遊郭が置かれていた。明治三十二年は娼妓取締規則が制定された年だが娼妓稼業の一面を窺える。
閻魔堂とも呼ばれている田町十王堂。
田町十王堂(焔魔堂)
閻魔堂とも呼ばれている田町十王堂。十王とは人の死後、初七日から三周忌までの間に冥途の十人の王が十回の裁判をして、来世の行先を決めるという、十王信仰に由来するものです。
これは、中国の道教の影響によるもので、十王のうち怒った顔で有名な閻魔王の本当の姿が地蔵菩薩であることから、その信仰が盛んになるにつれて、閻魔王が十王の中心になったといわれています。
生前に十王にお参りすると、死後の裁判のとき手心を加えてくれるとされ、信仰は人々の間に広まり江戸時代は各村落に十王堂が設けられていました。十王の祭りは正月と盆の十六日、つまり薮入りの日で閻魔の斎日とよばれていました。田町の祭りは盆(八月十六日)のみですが、地域住民により現在も賑やかに引き継がれています。
明治初年、新政府の廃仏毀釈政策で檀家のない十王堂はすべて廃されました。そのころ田町の堂は、火災にみまわれましたが、諸像は運び出されて無事でした。庶民の十王に対する信仰は根強く、地区の公会堂を設けたときに、十王像などを安置し、やがて祭りも復活しました。地獄の沙汰も金次第といわれますが、人々にとって、来世で地獄に落されることは最大の恐怖だったのです。田町十王堂は、近隣の十王堂が廃されたことから多くの参詣客を集め、当地でもっとも人出の多い祭りといわれました。また十王堂は遊郭の少女達の教育の場としても使われ、出浦氏の墓地にあったお堂を利用して祀られたと考えられています。
十人の裁判官と本地仏
忌日 十王 本地仏
初七日 泰広王 不動明王
二七日 初江王 釈迦如来
三七日 宋帝王 文殊菩薩
四七日 五官王 普賢菩薩
五七日 閻羅(魔)王 地蔵菩薩
六七日 変成王 弥勒菩薩
七七日(四十九日) 太山王 薬師如来
百ヵ日 平等王 観世音菩薩
一周年 都市王 大勢至菩薩
三周年 五道転輪王 阿彌陀如来
平成十九年三月
田町区
坂城町教育委員会
十王堂の裏に村上義清公墓所はある。
武田信玄を唯一討ち破った勇将 村上義清 信濃を舞台に繰り広げられてた「川中島の戦い」。戦国屈指の好敵手、武田信玄と上杉謙信ばかりに脚光が当たるが、この合戦のきっかけを作ったのは信濃の剛勇・村上義清。坂城一帯の領主だった義清は、電光石火の早業で、信濃全域の掌握をもくろむ信玄の前に立ち塞がり、一度ならず二度勝利している。
この墓所は、第三代坂木代官長谷川安左衛門利次が、名家遺跡の忘失を憂え、戦国の雄将村上義清公の墓所建設を思いたち、明暦三年(1657)義清公の玄孫義豊や村上氏の臣出浦氏の子孫、正左衛門清重らにはかり、自ら施主となって出浦氏所有の墓地に、義清公供養のための墓碑「坂木府君正四位少将兼兵部小輔源朝臣村上義清公神位」を寄進によって設立したものである。その後、寛保二年(1742)清重の子清平が玉垣を築き、寛政三年(1791)清平の子清命が、石柱「御墓所村上義清公敬白」を建てた。 昭和四十五年以来諸整備補修が行われ、昭和四十七年墓碑の上屋と鉄柵が設置された。平成八年には全面的改修となり、現在の諸施設になった。
平成八年三月
坂城町教育委員会
墓碑
右側面には、「上奉寄進石塔一本長谷川安左衛門利次施主」
左側面には、「上、玄孫義豊代」
裏面には、「上、村上旧臣出浦正左エ門清重」とあるらしい。
墓所隣には地蔵。
墓所左側。
墓所右側。出浦氏の墓か。
ここに出浦氏の墓があるなら、出浦氏の館も近くにあるかもしれないが、今のところ筆者は言及した書物に出会っていない。
村上義清公墓所は満泉寺の所有で、住職によって法要が営まれているそうである。
2019、10月初訪
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