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2018年5月31日木曜日

定津院@東御市祢津

この寺には「信州臨川山定津院年表」という旧記があり開創は明白という。
これによると開創は、開基が祢津上総輔信貞、開山が拈笑宗英、宗派は禅宗曹洞派で、宝徳元年(1449)のことであったとわかる。

鎌倉時代から禅宗の寺は多くあったが、それらは栄西の教派に属する臨済宗であり、道元系・永平寺系の曹洞宗は信濃では室町初期に一寺が建立され、室町中期以降次第に増加し戦国期に爆発的に盛行したという。
信濃の曹洞禅寺の開創は古い順に、応永十一年(1404)大町の霊松寺(仁科氏)、宝徳元年(1449)祢津の定津院(祢津氏)、文明十五年(1483)岩村田・の臨済からの改宗(大井氏)で、竜雲寺の天英祥貞和尚の力により、佐久の正眼院、水内の興善寺(牧の島)、高井の興国寺なども開き曹洞宗がひろがったという。
祢津信貞は東信濃における曹洞宗の先駆けであった。(以上「東部町誌」より)

拈笑宗英禅師は曹洞宗の拈笑派の祖である。最勝院(静岡県伊豆市宮上)の吾寶禅師に師事し、雲岫 、南極、模菴、洲菴と共に五哲に数えられ、最勝院の2世を勤め、文安4年(1447)には武田家の招きにより甲斐に東林院(山梨県甲州市勝沼町小佐手)を開山するなどしている。

四世海秀玄岱禅師の天文十年(1541)に「定津院の諸堂を焼失した」とあり、「東部町誌」では武田・諏訪・村上連合の海野攻めのためだろうとある。
七世年室宗長禅師は定津院に来る前、天文二十二年(1553)に丸子町腰越の全芳院を開いている。
天正十二年(1484)、祢津昌綱と欣隆禅師の記述がある。(「東部町誌」より抜粋)

安永二年(1773)に建立されたという山門 。






定津院の裏山の墓地には祢津氏歴代の墓がある。
宝篋印塔や五輪塔があるが、室町末期から戦国期のものが多いという。

開基が祢津上総輔信貞、宝徳元年(1449)のことであったというが、祢津氏は大塔合戦(1400)や南北朝時代はおろか、平安期の保元の乱・平治の乱(1156・1160)、源平合戦(治承・寿永の乱1180年ー1185))、承久の乱(1221)にも名を残す氏族である。
平安期は兎も角、鎌倉期のそれらの墓なり供養塔なりはどこかにあるのだろうか。


城郭を思わせるような門前の参道。実に立派である。

また、岩井堂にある御姫尊は別院であるという。


2018、5月再訪

2018年5月23日水曜日

腰越石積遺構(仮)@上田市丸子

ここで取り上げるものは、その道の大家の方々がスルーしているようなので、比較的近代の遺構と思われる。
近所の方や博物館等の研究員の方に聞くなどすれば、或ははっきりしたことも判るかもしれないが、コミュ障の著者にはタイミングが必要なのである。
とりあえずまとめてみたので興味があったらどうぞ。

一本木諏訪神社と墓地の背後、山麓と山上に石積遺構はある。
この辺りは丸子城跡根羽城跡の中間地点にあたるが、現在山向こうの東内まで間道が通じているようである。

 城跡でないことは素人でも判る。
下部の溝が水路のようであり、湧水を引く為の施設とも思ったが、かなり大がかりな工事をされており解せないものがあるのである。

 湾曲した石積の段は形状的に土砂止めだろうか。山からの雨水も流れ込まないような意志を感じる。

 まるでピラミッド。
こういった造型にする必要性は何なのだろう。

屋根をかけて風穴的な使い方もあるか。
 一本木諏訪神社の拝殿裏にも小さいながらL字型のものがみえた。


ここまでは鹿よけの柵があるので墓地を抜けてくるのがよい。
さらに進むと山上への間道入口になる。


 岩窟の祠。
 かなり新しい石板。
片倉・瀧澤・宮坂・田嶋・高誠?の名がある。
実は間道は階段をつけるなど遊歩道化された形跡があり、石積遺構も含めてそれらに人力された方々の名かもしれない。


 朽ちかけた鳥居。
山頂の観音像や祠への参道でもあるらしい。

 ちょっと怖い間道。
 途中の祠。
 滑落が怖いのであまり近寄りたくない。
 だよね。

 階段が付いている。
 地味に難所。
 難所上の平場。
 金山とだけは確認。
 腰越側へ張り出した尾根ということらしい。

 祠と石積が見える。

 遊歩道的な間道。

 石積の上の一際大きな祠。
 はっきりとした刻銘などは確認できなかった。

 別アングル。
 別アングル。
 別アングル。
 別アングル。
 別アングル。
 別アングル。
 別アングル。
 引きでみてみる。
 石積の上段は意外と広い。
こんな高所で墓地としての利用もないと思うので、一時はお堂などが建っていたかも知れない。
 別アングル。
 上から。
 上から。
 祠の裏がほぼ頭頂部になる。
思わず極楽浄土を想像するほど落ち着く場所である。

観音像か。
辺りは鑑賞木の植林もされているようで、パワースポットとか言って宣伝できそうな雰囲気である。

 東(腰越方面?)を向いている。


確認はしていないが間道は東内方面へ下っているようである。
この間道がいつの時代から機能していたかわからないが、もし戦国期にあったとしたら麓に小屋の機能をもつ施設があったろう。木曽義仲が祈願したという一本木諏訪神社、或は全芳院がそれに当たるか。
実際、全芳院は丸子城の根小屋または城館と考えられている。場所も腰越町地籍より一段高いところにあり池は堀だとも言われている。開創は天文22年(1553)丸子城主丸子三右衛門の父、依田肥前守の開基という。
ただし、すぐ隣の「腰越文化伝承館」も城館とされており、丸子城主郭に近い間道も存在している。

どちらにせよ、丸子城と根羽城をつなぐ中間地点であることから何らかの施設があってもおかしくはない。そんな謂れなりから後世ここに石積遺構や祠が築かれた可能性もある。
ただ実際は観音像も東内と腰越を結ぶ間道の安全を祈ってに置かれた物で、おそらく江戸後期以降と考えるのが無難か。



2018・四月再訪

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...