祢津領主松平忠節の奥方了照院が婦人病を患ったが、霊夢の導きで巨石に祈り、治ったたことから、巨石の側に庵を結んで病の女性の救済に尽くしたと伝えられ、「吾れ死後一心こめて折りなば腰より下の病をなさん」という辞世を詠んだとしている。
貞享二年(1685)に亡くなり遺髪を巨石の傍らに葬り、お姫さんといわれ女性の参拝を集めたという。
参道入口付近。
すぐ向かいは祢津上の城。
すぐに削平地に行き着く。
平地中央の石塔類。
年代を確認していないが古いものではなさそう。ただ、散在していた五輪塔をまとめて祭った様子なので周りの五輪塔郡自体は古い可能性がある。
平地は結構な広さなので寺でもあったのかとも思ったが、「岩井堂」自体か松平忠節の奥方が結んだという庵がここに在ったかも知れない。現状では巨石のすぐ近くに朽ちたお堂があり、従来もそうであった可能性が高い。
この平地は周囲に池跡や東屋があることから、近年に公園化された際に広げられた可能性もある。
想像したより大きそうだ。
荒れ果てた参道。
朽ちたお堂と崩れそうな石垣。これは近いうちには立入禁止になる可能性もある。
石垣は古いものでは無さそうだが、ここに、これだけのものがあること自体がかつての振るわいを偲ばせる。
お堂内。拝殿となっていたらしい。
ついに巨石。
正面から見るには拝殿内からでないと無理のようだ。
こういった巨石には石船伝説なりがつきまとうイメージがあるが、ここには聞かれない。
だが、巨石に彫られた御姫尊自体は江戸時代のものであるが、それ以前からここが何かしらの信仰の対象であったことは「岩井堂」の地名からもあろうと思われる。
周辺。
更に上がる。
見晴らしが良い。確証はないがこの辺りが地字「御射山」だろうか。
「御射山」は狩場であった所と思われ、諏訪神氏であった祢津氏が「御射山」神事を行ったいたことを伝える地名ではとも言われている。
「御射山神事」については説明は省くが、その狩に使われたのが鷹(鷹匠)で、祢津氏がその神事を行ったという資料はないのだが、祢津長命寺の前に「金井小路」があり、これは諏訪上社で神に供える料理を作る「鹿人職」と神官や巫女たちの面倒をみる「大市職」を務めた金井氏に関係した者が住んだところではと推測され、諏訪社の祭事が行われていた可能性がある。(「祢津の里ノノウの実像」より意訳)
諏訪社参照。
諏訪氏参照。
祢津氏参照。
金井氏参照。
ここは麓の定津院の別院であることだが、もう少し何とかならないものか。切ないかな、廃墟マニアにはたまらないんだろな。
祢津は日本一の巫女村といわれる。江戸時代の「信濃の歩き巫女(ノノウ)」を指したものだと思うが、彼女らもこの御姫尊に多くすがったに違いない。
祢津下の城 |
2018、4月初訪
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