2019年1月27日日曜日

大塔の古要害@長野市篠ノ井二ツ柳大当

応永七年(1400)の「大塔合戦」で、幕府小笠原軍800騎余りの内300余人が20日間にわたって立てこもり、食糧が果て全員が討死または自害したという悲劇の城。「大塔の古要害」と伝えられている所である。
この場所は、犀川から南下する岡田川と千曲川の氾濫に常に見舞われてきたと思われ、水害か兵乱で何時しか討ち捨てられた何者かの居館跡であったものが「大塔合戦」のときに使われたということらしい。

最近では「大塔の古要害」は二ツ柳城であろういうのが有力であるようである。
しかし、ここから東の方にある御幣川の宝昌寺境内の薬師堂は大塔合戦の多くの戦死者を葬った所と伝承するが、むしろこちら側のが近いなど、伝承が残る以上は未だ比定地の一つである。
また、筆者には特定出来ていない地名があるが、国人側の敷いた陣のうち高梨友尊500余騎が二ツ柳に陣を置き、大文字一揆800余騎が石川に陣を置くなどと「大塔物語」にあることは、二ツ柳城が「大塔の古要害」であるはずないと思われるのだがどうなのであろう。
小笠原軍に属した市河六郎頼重が恩賞を求める文書に「二ツ柳城で疵を被った」とあるようだが、しかし、これではどちらが攻守かわからない。
二ツ柳城が「大塔の古要害」であるならば、小笠原軍300余人が高梨軍500余騎を突破するかかわすかして二ツ柳城に入城したことになる。
四方を敵に囲まれた中で寡兵が逃げ込むとしたら、ここ大当の廃城がもっとも容易いのではあるが、「大塔物語」が軍記物語であることには注意したい。

約100m四方の敷地に、湯沢川の水を引いた堀跡とされる水路が残り、要所要所は鉤の手に折れ曲がり。外周にも堀跡と考えられる形の用水があるが、記録は何も残っていないという。

岡田川の対岸から。

岡田川の橋を渡った道路。この左側一帯が「大塔の古要害」とされる。

岡田川東側の窪地は元々の河川跡とおもわれるが、城域西限になろう。

城域の北端。中央の家の石積の延長が北限ラインと「信濃の山城と館」の縄張り図にある。

ここから西側は二ツ柳城夏目城石川城が見える。

城域の北端。
確かに微高地ではある。

東側の一画の祠と水路と土塁の名残かもしれない笹の築地。
水路は民家の間を抜けて南側の堀跡と思える地形に繋がっている。

東限の道路。この西側20mに水路があることを考えると、そこまでの間は水堀であったかも知れない。
さらに少し南に行くと水路が折れていることや、空間が過去に溜池などが在った事を想像させる。

東南隅の辻にある石塔。

東南隅の一画の畑が周りより低地であることは気にかかる。

南端の道路。
この先は始めの橋に戻る。

素人に遺構の判定はむつかしいが、その地に伝承が残るのには訳があると信じて調査する事は大切なこととおもう。
ここが謂れの知らない者の古い居館跡であって、たとへ「大塔の古要害」でないにしろ、東側水路一帯の遺構など妙に納得させられるものなのである。




2019、1月初訪

2019年1月21日月曜日

湯ノ入神社城@長野市篠ノ井石川

篠ノ井石川の湯入神社のところで、夏目氏の城とされ夏目漱石の先祖の碑がある。
同族である二ツ柳氏二ツ柳城跡もすぐ近く東側にあり、更にその東側一帯は応永7年(1400年)に「大塔合戦」のあった地域で篠ノ井二ツ柳地籍に「大当」の地字があり「大塔の古要害跡」とされる所がある。最近の通説では二ツ柳城がそれに当たるとされ、また夏目城も「大塔の古要害」に相当するのではともいわれている。
それには、室町時代中期には既に二ツ柳城も夏目城も廃城となっていなければならないが、おそらく南北朝の動乱で力を失い退転したものと思われる。

夏名氏は村上氏の庶流であるといい、二柳氏初代国高の孫国平を祖とするという。
国平の父、二柳国忠は源頼朝に仕え、藤原泰衡に対する奥州合戦の時、軍功があって信濃国の夏目村の地頭職を与えられた。二男だった国平は二ツ柳家より分家し、夏目邑(石川邑夏目平)に移り夏目氏を称したという。
夏目国平は安元元年(1175年)? - 嘉禄元年2月3日(1225年3月13日)(Wikipediより)の人で、鎌倉時代の古族である。

「夏目漱石の先祖 夏目氏発祥の地」 石碑
夏目氏は数流に分れたようで、室町時代前期に三河国六栗に移住し、永禄年間(1558~1570)に六栗城を築城したという夏目氏がある。戦国時代には徳川家康に仕え、三方ヶ原の戦いで武田勢から家康をかばって討死した夏目吉信を出す、夏目漱石はその後裔であり、そのルーツは信濃の夏目氏ともいわれている。
現在の長野市にも二ツ柳氏と夏目氏はおられるようで、子孫の方々と思われる。

案内板の縄張り図。
「鶴牧城」の出どころは分からないが、「信濃の山城と館」に、「更級郡誌」に「石川村夏目平に居り、夏目氏と称し、石川村鶴牧城は夏目氏の要害なるべし」とあり、諸状況からこの城が「鶴牧城」とみてよいだろうと考えられているとある。
今のところ「湯ノ入」や「鶴牧」が地名なのかどうかは調べていないので分からない。

上の図をトレースしたものだが、違いは右下の墓と(1)の脇の竪堀横に取り付く道くらいのものか。
東南に張り出した弛みのある小さな尾根のような所があり、南にせり出した城の先端といえる所なので、何か意味がある場所かもしれない。
西の参道である階段との中間には墓地となっている削平地もあるが、古いものかは分からない。

湯ノ入神社城の南側一帯は竹や笹に覆われて調査出来ないが、階段の途中には郭状の削平地も見られるのでこの方向に登城路が在った可能性もあるか。
ただし、湯ノ入神社の西側「夏目平」が居館跡とされているので、大手はそちら側かもしれない。


湯ノ入神社の鳥居。

神社境内までには二段、道路を含めると三段の平地があるが、古いものかは分からない。

境内の土留めの石積。やはり古いものかは分からない。

参道を登り切ると、まず正面の拝殿に目が行くが、すぐに右手の土盛に気付く。

縄張り図で(1)のところ。予想より大きく、しっかり残っている。

階段は後世のものだろう。二つの祠の屋根がみえる。
皇大神宮と天神宮らしい。背後には土塁跡と思われる高まりが確認できる。

背後と横手の石塔群。

北側からみた(1)。
こちら側の根本には堀が通っていたらしい。
堀跡の窪地は外側に土塁を伴っているようにみえ、西の拝殿側ははっきりしないが、東は道路を越えて竪堀となっている。
しかし、竪堀はごく浅い。

道路を北に少し行くともう一つの堀が見える。
一見して竪堀で下の方で沢に繋がっているのまで確認できた。
この堀は神社裏手の道路脇にに発しているのだが、神社裏の境内は道路よりかなり低い為、この堀の延長でないかと思われなくもない。境内、つまり城域の北側は緩い登りの斜面であり、北からの侵入を遮る防御施設がほとんど確認出来ないことから、この堀と西側の堀は繋がっていt、唯一北側と主郭を遮断していたのではないかと考えられるのである。

境内の裏側。奥の笹藪の切れた所が竪堀である。
明らかに低いことがわかる。ただ、その場所が本殿であることは気にかかる。

西側の堀。本来はこれらが連動していたとおもわれる。

 さらに北は「城のうら」と言われるところで、畑の尽きるところに谷の様な堀が東側の沢に落ちている。

北から見た「城のうら」と、奥に湯ノ入神社。

笹や草の藪で全容は掴みにくいのだが、縄張り図の様にかなり広く深いと想像される。
この堀も本来はもう少し西側に延長していたかも知れない。

「城のうら」から見た「夏目平」方向。
西側に関しては民家もあり、この北側まで含めて未調査。

「城のうら」の北側はいくらかの段がつき上側は荒れ野となる。

神社から150mほどの所に「みのわ」という小高い丘があり、砦跡という。
藪で侵入困難の為未調査。東側は沢の谷だが付近に堀跡などは見当たらない。ただ北側の広い低地は堀の役目だった可能性はありそうである。

北側の防備が不安であると指摘さらるが、石川地籍はもう少し北まであり、柳澤地籍との境辺りにも何か施設がありそうである。
夏目氏は二柳氏の分かれであるので、二柳神社城同様に北側の布施氏平林氏との姻戚関係があったものと思われる。
西の石川城石川氏との関係はよくわからないが、「石川 基光(いしかわ もとみつ、生年不詳 - 建久10年4月3日(1199年4月29日))は、平安時代後期の武将。大和源氏の流れを汲む陸奥石川氏6代目当主。石川義季の次男(3代目当主元光とは別人)。松田重勝、広季、季光、光家、泰師らの父。従五位下大和守。夫人は夏目国平の妹。」(Wikipedi)とあり、石川氏は陸奥石川氏の関係で夏目氏と姻戚関係に在ったことが想像できる。

北側「みのわ」付近から見た湯ノ入神社城。



主郭部は湯ノ入神社境内である。
本社祭神名 建御名方命(たけみなかたのみこと) 八坂刀売命
創立年月不詳。湯の入地に鎮座。亨保16年(1731)当地に移る。寛政11年(1799)3月吉田家へ願い湯入神社の社号を受く。(長野県神社庁HP)



東側の堀の役目である大沢(柳沢沢)。
「信濃の山城と館」にある、「「アマイケ」が崩れた深い谷」がどのことか分からないが「城のうら」の深い堀か、或は「箕輪」裏の低地に関わるものだろうか。

麓の風景。

川柳将軍塚古墳への道。
川柳将軍塚古墳は布制神社とともに石川条里制水田遺跡に関わる権力者のものとされるようだ。

「夏目平」付近。
陶磁器などが発掘され夏目氏の居館が在ったとされている。

南西から見た湯ノ入神社城。

すぐ麓にある真蔵寺
ネット上に情報なし。

真蔵寺の東側一帯は「城の腰」というらしい。

湯ノ入神社城遠望。



東御市の県に夏目田氏館跡がある。
「長野県町村誌」に「夏目田氏遺跡、県村中央夏目田組にあり。凡一町許り、今向屋敷と云う。里伝に夏目田左近将監国平居住の地と云う。大系図に夏目氏、夏目村の地頭職と賜ふとあり。」
夏目氏夏目田氏が同一氏族の可能性があること事をいっているように受け取れ、「夏目左近将監国平」と「夏目田左近将監国平」は同一人物とも考えられる。
夏目氏、夏目邑は南信地方にもあるが、小県地域にも所領があったのかもしれない。




2019、1月初訪


足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...