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2020年3月13日金曜日

海禅寺@上田市中央北新田

大智山金剛院海禅寺。
真言宗智山派。
本尊大日如来。

海禅寺は、その草創は少なくとも平安期にさか上ると推定されています。現在の長野県東御市に、「海善寺」という地域がありますが、これは開善寺(海禅寺の旧名)がかつてあった故に名づけられた地名であります。開善寺は古くから皇室と縁の深かった滋野氏や、その系統を伝える豪族海野氏の祈願寺として栄えてきました。戦国時代、武田信玄が小県郡を平定したとき、まず願文を捧げたのは、名社「生島足島神社」と、この開善寺でした。(現在願文は、上田市立博物館にて展示)その後、天正11年(1583年)、真田昌幸公の上田城築城にあたり開善寺は、城の鬼門除けのため現在の地に移され、「海禅寺」と改称、上田城下町鎮護の寺となりました。以降約430年余り、その間、学問所が設置され、談林所としての役を果たす時期を経て、多くの檀信徒の皆さまのお支えをいただきながら、現在に至っております。(【信州上田 海禅寺】公式ウェブサイト)


創建は平安朝の承平五年(935)といわれ、元は現東御市の海善寺地籍にあって「海善寺」或いは「開善寺」といい密教系真言の古寺で海野氏の祈願寺であったという。
文保元年(1317)の銘の宝篋印塔の基壇や明徳元年(1390)の文書、永禄六年(1563)「武田信玄寄進状」などからこの地に永くつづいたことがわかる。
天正十一年(1583)真田昌幸が上田城を築いた際、城の北東に鬼門鎮護の寺として移転。
元和八年(1622)真田信之が松代に移封になると松代城下に移転。
おそらく「海善寺」或いは「開善寺」の寺号とともに移ったため、上田に残された同寺は「海禅寺」と改称したものと思われる。
一説では東御市の白鳥神社を松代に分社した折、海善寺を別当寺とし伽藍を建立、その名も開善寺と改めたという。

東御市の「海善寺跡」と推定されている場所には五輪塔群と「海善寺跡」の石碑があり、石碑に海野氏創建の祈願寺とある。
「海善寺」創建は貞元親王(清和天皇の第三皇子)ともいわれるが、滋野氏の祖とされることによるものだろう。海野氏は滋野氏の流れを主張する氏族で、海善寺跡の南側にある「太平寺城(海野館)」に住んだ時期があるらしい。
また「海善寺跡」に隣接するように「滋野神社」があるが、元は「八幡社」で海野氏の氏神であったという。
やはり天正12年(1584)真田昌幸により上田城の鬼門除けの神社として移されており、「海禅寺」の南西200mにある紺屋町「八幡宮」がそれである。
移転されたのが「海善寺」である理由としては、おそらく、東御市の「海善寺」がそれ以後廃寺となったと思われることから、永禄六年(1563)以後に戦火等で荒廃していた可能性があるのかもしれない。

残された「海禅寺」には学問所が設置され、談林所としての役を果たしたという。
境内に湧き出る清水は、明治十四年に城下まで木管で引き町中の人達の生活用水や非常用水として利用されたといい、現在は柳町に「保命水」が残っている。


真田家祈願所
人形供養の寺

門柱。
参道。

山門。

本堂。
真田氏、海野氏ゆかりの洲浜と六文銭の紋が見える。

初冬に「人形供養」が行われているらしい。

手水舎。

境内。

聖天堂。





2020、3月初訪

2018年6月26日火曜日

海善寺跡@東御市海善寺

海野氏居館である太平寺城の東を流れる金原川を、北へ遡った西側、海善寺集落の北西に、墓地を含む広い平地がある。
海善寺跡といわれるところで、前方には大坊や大門の呼称も残っているという。
一帯は浄土的ともいえる不思議な雰囲気がある。

ここから文保元年(1317)の銘の宝篋印塔の基壇が発掘され、現在は興善寺境内に移されているという。

塩尻市の常光寺所蔵の奧書に「明徳元年(1390)九月七日・海禅寺南光坊・書おわんぬ」とあるといい、南北朝末期にも海善寺がつづき坊があったことがわかるという。
また、永禄六年(1563)には武田信玄が、いったんは没収した寺領を海善寺側からの願いをきいて還付しており、寺領は三六貫五〇〇文と大きい。
この「武田信玄寄進状」では開善寺の字を用い、禅の字を用いたものもあるが真言宗という。海野氏も祢津氏と同様古一族であり、密教系真言の寺を持つことは当然である。
海善寺は文保元年鎌倉後期から南北朝期を経てつづいたが、天正年代に入って真田昌幸が上田城下町を形成するに伴って、上田城下に移転を命じられた。天正十一年(1583)以後のことである(「東部町誌」)。

天正十一年(1583)真田昌幸が上田城を築いた際、城の北東に鬼門鎮護の寺として移転。
元和八年(1622)真田信之が松代に移封になると松代城下に移転。
おそらく「海善寺」の寺号とともに移ったと思われるが、のち「開善寺」と改めている。
その為上田に残された「海善寺」は「海禅寺」と改称したものと思われる。
移転されたのが「海善寺」である理由としては、おそらく、東御市の「海善寺」がそれ以後廃寺となったと思われることから、永禄六年(1563)以後に戦火等で荒廃していた可能性があるのかもしれない。

海善寺跡の一角にある五輪塔郡。

おそらく付近に散乱していたものを集めたものだろう。

五輪塔群の脇に「海善寺跡」の石碑が建つ。
海野氏創建の祈願寺とある。

墓地の北の平地。
善光寺などみても、墓地や供養塔は本堂の裏(北)にあるもののようにも思えるのだがどうなのであろう。

前方に大坊や大門の呼称も残っているというのは、やはり南側一帯をさすと思うので、或は公民館辺りまでが寺領であったものか。

墓地の東北には、北から流れてきた金原川が人為的に東に折れ、また南に折れている所がある。近代の手が入っているのは明らかだが、かつての寺領北辺の形跡であるのかも知れない。

その付近はうっそうとした林と畑地とであるが、雰囲気はある。

ここの西にすぐ近く海善寺の滋野神社があり、元は八幡神社で滋野氏の氏神とされている。
この神社も真田氏が上田城築城の際、紺屋町に移された八幡神社八幡神社となっており、滋野神社はその跡地である。

史料を漁っていないので、とりあえずはここまで。


2018、6月初訪。
2020、3月追記


2018年5月31日木曜日

定津院@東御市祢津

この寺には「信州臨川山定津院年表」という旧記があり開創は明白という。
これによると開創は、開基が祢津上総輔信貞、開山が拈笑宗英、宗派は禅宗曹洞派で、宝徳元年(1449)のことであったとわかる。

鎌倉時代から禅宗の寺は多くあったが、それらは栄西の教派に属する臨済宗であり、道元系・永平寺系の曹洞宗は信濃では室町初期に一寺が建立され、室町中期以降次第に増加し戦国期に爆発的に盛行したという。
信濃の曹洞禅寺の開創は古い順に、応永十一年(1404)大町の霊松寺(仁科氏)、宝徳元年(1449)祢津の定津院(祢津氏)、文明十五年(1483)岩村田・の臨済からの改宗(大井氏)で、竜雲寺の天英祥貞和尚の力により、佐久の正眼院、水内の興善寺(牧の島)、高井の興国寺なども開き曹洞宗がひろがったという。
祢津信貞は東信濃における曹洞宗の先駆けであった。(以上「東部町誌」より)

拈笑宗英禅師は曹洞宗の拈笑派の祖である。最勝院(静岡県伊豆市宮上)の吾寶禅師に師事し、雲岫 、南極、模菴、洲菴と共に五哲に数えられ、最勝院の2世を勤め、文安4年(1447)には武田家の招きにより甲斐に東林院(山梨県甲州市勝沼町小佐手)を開山するなどしている。

四世海秀玄岱禅師の天文十年(1541)に「定津院の諸堂を焼失した」とあり、「東部町誌」では武田・諏訪・村上連合の海野攻めのためだろうとある。
七世年室宗長禅師は定津院に来る前、天文二十二年(1553)に丸子町腰越の全芳院を開いている。
天正十二年(1484)、祢津昌綱と欣隆禅師の記述がある。(「東部町誌」より抜粋)

安永二年(1773)に建立されたという山門 。






定津院の裏山の墓地には祢津氏歴代の墓がある。
宝篋印塔や五輪塔があるが、室町末期から戦国期のものが多いという。

開基が祢津上総輔信貞、宝徳元年(1449)のことであったというが、祢津氏は大塔合戦(1400)や南北朝時代はおろか、平安期の保元の乱・平治の乱(1156・1160)、源平合戦(治承・寿永の乱1180年ー1185))、承久の乱(1221)にも名を残す氏族である。
平安期は兎も角、鎌倉期のそれらの墓なり供養塔なりはどこかにあるのだろうか。


城郭を思わせるような門前の参道。実に立派である。

また、岩井堂にある御姫尊は別院であるという。


2018、5月再訪

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...