大智山金剛院海禅寺。
真言宗智山派。
本尊大日如来。
海禅寺は、その草創は少なくとも平安期にさか上ると推定されています。現在の長野県東御市に、「海善寺」という地域がありますが、これは開善寺(海禅寺の旧名)がかつてあった故に名づけられた地名であります。開善寺は古くから皇室と縁の深かった滋野氏や、その系統を伝える豪族海野氏の祈願寺として栄えてきました。戦国時代、武田信玄が小県郡を平定したとき、まず願文を捧げたのは、名社「生島足島神社」と、この開善寺でした。(現在願文は、上田市立博物館にて展示)その後、天正11年(1583年)、真田昌幸公の上田城築城にあたり開善寺は、城の鬼門除けのため現在の地に移され、「海禅寺」と改称、上田城下町鎮護の寺となりました。以降約430年余り、その間、学問所が設置され、談林所としての役を果たす時期を経て、多くの檀信徒の皆さまのお支えをいただきながら、現在に至っております。(【信州上田 海禅寺】公式ウェブサイト)
創建は平安朝の承平五年(935)といわれ、元は現東御市の海善寺地籍にあって「海善寺」或いは「開善寺」といい密教系真言の古寺で海野氏の祈願寺であったという。
文保元年(1317)の銘の宝篋印塔の基壇や明徳元年(1390)の文書、永禄六年(1563)「武田信玄寄進状」などからこの地に永くつづいたことがわかる。
天正十一年(1583)真田昌幸が上田城を築いた際、城の北東に鬼門鎮護の寺として移転。
元和八年(1622)真田信之が松代に移封になると松代城下に移転。
おそらく「海善寺」或いは「開善寺」の寺号とともに移ったため、上田に残された同寺は「海禅寺」と改称したものと思われる。
一説では東御市の白鳥神社を松代に分社した折、海善寺を別当寺とし伽藍を建立、その名も開善寺と改めたという。
東御市の「海善寺跡」と推定されている場所には五輪塔群と「海善寺跡」の石碑があり、石碑に海野氏創建の祈願寺とある。
「海善寺」創建は貞元親王(清和天皇の第三皇子)ともいわれるが、滋野氏の祖とされることによるものだろう。海野氏は滋野氏の流れを主張する氏族で、海善寺跡の南側にある「太平寺城(海野館)」に住んだ時期があるらしい。
また「海善寺跡」に隣接するように「滋野神社」があるが、元は「八幡社」で海野氏の氏神であったという。
やはり天正12年(1584)真田昌幸により上田城の鬼門除けの神社として移されており、「海禅寺」の南西200mにある紺屋町「八幡宮」がそれである。
移転されたのが「海善寺」である理由としては、おそらく、東御市の「海善寺」がそれ以後廃寺となったと思われることから、永禄六年(1563)以後に戦火等で荒廃していた可能性があるのかもしれない。
残された「海禅寺」には学問所が設置され、談林所としての役を果たしたという。
境内に湧き出る清水は、明治十四年に城下まで木管で引き町中の人達の生活用水や非常用水として利用されたといい、現在は柳町に「保命水」が残っている。
真田家祈願所
人形供養の寺
参道。
山門。
本堂。
真田氏、海野氏ゆかりの洲浜と六文銭の紋が見える。
初冬に「人形供養」が行われているらしい。
手水舎。
境内。
2020、3月初訪
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