2018年6月26日火曜日

海善寺跡@東御市海善寺

海野氏居館である太平寺城の東を流れる金原川を、北へ遡った西側、海善寺集落の北西に、墓地を含む広い平地がある。
海善寺跡といわれるところで、前方には大坊や大門の呼称も残っているという。
一帯は浄土的ともいえる不思議な雰囲気がある。

ここから文保元年(1317)の銘の宝篋印塔の基壇が発掘され、現在は興善寺境内に移されているという。

塩尻市の常光寺所蔵の奧書に「明徳元年(1390)九月七日・海禅寺南光坊・書おわんぬ」とあるといい、南北朝末期にも海善寺がつづき坊があったことがわかるという。
また、永禄六年(1563)には武田信玄が、いったんは没収した寺領を海善寺側からの願いをきいて還付しており、寺領は三六貫五〇〇文と大きい。
この「武田信玄寄進状」では開善寺の字を用い、禅の字を用いたものもあるが真言宗という。海野氏も祢津氏と同様古一族であり、密教系真言の寺を持つことは当然である。
海善寺は文保元年鎌倉後期から南北朝期を経てつづいたが、天正年代に入って真田昌幸が上田城下町を形成するに伴って、上田城下に移転を命じられた。天正十一年(1583)以後のことである(「東部町誌」)。

天正十一年(1583)真田昌幸が上田城を築いた際、城の北東に鬼門鎮護の寺として移転。
元和八年(1622)真田信之が松代に移封になると松代城下に移転。
おそらく「海善寺」の寺号とともに移ったと思われるが、のち「開善寺」と改めている。
その為上田に残された「海善寺」は「海禅寺」と改称したものと思われる。
移転されたのが「海善寺」である理由としては、おそらく、東御市の「海善寺」がそれ以後廃寺となったと思われることから、永禄六年(1563)以後に戦火等で荒廃していた可能性があるのかもしれない。

海善寺跡の一角にある五輪塔郡。

おそらく付近に散乱していたものを集めたものだろう。

五輪塔群の脇に「海善寺跡」の石碑が建つ。
海野氏創建の祈願寺とある。

墓地の北の平地。
善光寺などみても、墓地や供養塔は本堂の裏(北)にあるもののようにも思えるのだがどうなのであろう。

前方に大坊や大門の呼称も残っているというのは、やはり南側一帯をさすと思うので、或は公民館辺りまでが寺領であったものか。

墓地の東北には、北から流れてきた金原川が人為的に東に折れ、また南に折れている所がある。近代の手が入っているのは明らかだが、かつての寺領北辺の形跡であるのかも知れない。

その付近はうっそうとした林と畑地とであるが、雰囲気はある。

ここの西にすぐ近く海善寺の滋野神社があり、元は八幡神社で滋野氏の氏神とされている。
この神社も真田氏が上田城築城の際、紺屋町に移された八幡神社八幡神社となっており、滋野神社はその跡地である。

史料を漁っていないので、とりあえずはここまで。


2018、6月初訪。
2020、3月追記


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