2018年5月29日火曜日

飯綱城@上田市秋和


 写真は角度が悪いが、実はかなり長い尾根である。

村上氏連珠砦のひとつで、ツルメの城・甲城・赤羽兵部城などとも言われるようだ。
 築城年月及び城主は不明というが、「小県郡誌」に「…宝永郡絵図には赤羽兵部の城と載す。」という。
赤羽姓は上田市では小泉に多いようである(人名力)。
そこで思い付くのは、小泉氏は千曲川右岸にも勢力をもっていたようで、現上田城のある尼が淵に小泉氏の出城(小泉曲輪)があったということだろうか。
「宝永郡絵図」は宝永(1704ー1711)に描かれたものと思うが、飯綱城は江戸期には廃城になっていたろうし、赤羽兵部は戦国の末期、最終的な城主の名が伝わっていたものと思われる。

村上氏連珠砦の中では最も規模が大きく普請もしっかりしているという(信濃の山城と館)。尾根上の亀井城跡は虚空蔵山の稜線上になり、その道を押さえる意味もあるのかもしれない。
(3)の郭部を支城と言うらしいが、確かに北と南で造作が違うように思える。段郭群が横尾城に通じる気もするので、真田氏時代の改修があったと推測するがどうであろうか。

 軽四駆なら秋和大蔵京古墳の所から弥陀平の農道を行ける。
猪除けの柵を過ぎ、ヘリポート跡に駐車できる。

 ヘリポート跡に駐車から見た虚空蔵山。

 登山口。

 桑畑跡の石積。麓から尾根近くまで見られる。 
 尾根筋近くの桑畑跡と思われる石積だが、「…上古は寺塔数多の仏地なりと云ふ。」(長野県町村誌)というので、これらの遺構も混在しているかも知れない。

 尾根筋到着。
 虚空蔵山方面。
右手は東斜面で道がついているが、横切るように竪堀らしきものがみられた。西側は今登ってきた谷で、搦め手の堀の役も果たしているように思う。

 尾根先(飯綱城)方向は馬の背のような細尾根で、ここから城域と言っても良いと思う。

長井細尾根。
 (ク)の堀。
 (キ)の堀とで二重の堀切となっている。

 (4)の郭から振り返る。

 (4)の郭。
 (4)の郭は南側が高くなっている。
 (4)の東側にある郭。
「信濃の山城と館」ではここに竪堀がみられるがよく判らなかった。

 (4)の郭の南側は低い平場で、「信濃の山城と館」では(1)の郭としている。ここには小屋の基礎石が並んでいる。
(1)の郭の 10ほどの基礎石。

 (1)の郭の南側の土塁。中央は低く虎口状となる。
土塁の向こう側に井戸跡がある。
 縄張り図があった。
井戸跡。
 井戸跡付近から見た土塁。

 土塁上から見た(1)の郭。
(カ)の堀もよく判らなかった。

 (1)の郭の南側は大きな谷となるが、それが(オ)の大堀切である。

 (2)の郭のがん岩盤壁と(オ)の大堀切。

 (オ)の大堀切は二重の堀で両側とも竪堀となっている。

 (2)の郭へは、ここから登る他は北側に回り込むしかないらしい。
 ちょっとやばい。

 (2)の郭北側の土塁。

 
土塁越しに見た(オ)の大堀切。

 (2)の郭から見た青木村方面。

 (2)の郭から見た持越城方面。




 (2)の郭南斜面の小郭。

 (2)の郭南斜面の石積。

 
(2)の郭と南斜面の小郭周辺には崩落した石積跡がみられ、本来は南斜面を中心に石積が多用されていたのかも知れない。

 
南斜面を下る。

 手前(エ)の堀切と奥の(ウ)の堀切。

 (エ)と(ウ)で二重堀切の様相をみせてる。

 (エ)の堀切を振り返る。

 (ウ)の堀切。

 (ウ)の堀切を振り返る。

 (ウ)の堀切南側(、3)の郭がある区域。
出城と言われている所らしい。
(3)の郭周辺は腰郭と複数の段郭で把握しきれない。

 (イ)の二重堀切。

 (イ)の二重堀切南側の土塁。

 (イ)の二重堀切南側の段郭。


 「信濃の山城と館」の「穴」と思われる。

 (ア)の堀北側の郭の石積。

 
 (ア)の堀北側のこれらは近年の整備事業のものか。
 郭の補強にもみえるが。

(ア)の堀切。

 右手の削平地が最南端の遺構らしい。
大手と思われるのでこのまま下りたいところだが、車が上なので今回は断念した。

2018、5月初訪

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