2018年5月13日日曜日

豊城@上田市上田

中央の民家屋根の左に見える東太郎山からの尾根が豊城のある尾根だが、ちょうど屋根の裏で見えないか。
左奥に太郎山尾根の「花古屋城」も見える。
東太郎山から手前に延びる尾根辺り(右のあたり)が「柏山城」。
村上連珠砦群」のひとつで、「柏山城」と「花古屋城」を結ぶ狼煙台だといわれている。

同じ尾根の北に「白山比咩神社」、南端付近には「草創神社」がある。
この尾根は西側の山口と東側の大久保にまたがり、どちらの集落に関わるのかはっきりしない。穏やかな斜面の山口側に対して大久保側は崖が多く沢の形跡もあるので北側の一部からしか登るのは困難なように見受けられる。
なので山口側が根小屋で「花古屋城」の付嘱の砦かとも考えられるが、尾根南端の「草創神社」が大手の入口と考えられなくもないので金井に関わる可能性もありそうである。

大久保側、「大久保の小丸山」から見た豊城。
山口側から見た豊城。地籍的も豊城と呼ばれる辺りがここら辺だろう。
大久保側に比べて緩やかな印象。
南から見た豊城。

豊城の図
「信濃の山城と館」をトレースした縄張り図を描いてみた。
素人がと叱られそうだが、東西両岸の形状から1の郭の北には二条の堀切があったのではないかと想像した。
2の郭南側の右に突き出た台形の郭状の場所だが、さらに南側に突き出た長方形の平場の畑地と連続し、そこそこの広さである。そしてここは、左側に展開する耕作地よりも高い切岸上で小台地になっていて、おそらく豊城時代の切岸をそのまま生かしたものではないだろうか。
どうやら豊城は東側、大久保の急斜面に沿って築かれているものらしい。

尾根上の道まで車で行ける。そこから畑脇の道を歩いて入っていく。
東の大久保側は急斜面となっている。

これが、南側に突き出た長方形の平場の畑地。
「信濃の山城と館」にある、2の郭南側の右に突き出た台形の郭状の場所。

これらの西側は数段になった荒畑が広がる。
南側に突き出た長方形の平場が高い切岸上にあるのがわかる。

西側の畑地は結構な傾斜地。
この上あたりから郭的な遺構が見られてくるが、畑作地として造られたものか、畑作地に転用されたものかは判断できない。いうなれば、3の郭といった場所になる。

2の郭南側の右に突き出た台形の郭状の場所は一部スロープになっている。作畑によるものか。




2の郭の切岸。2m以上ある。

2の郭。
2の郭から、南方向の台形の荒畑をみる。

2の郭からみた1の郭南側の切岸と祠。
右隅、東側の隅辺りに虎口状の地形も見られる。
西側隅は道が通じる為か切岸が崩され、本来の形状は知れないようだ。

1の郭の南側の木の祠。三峯神社の御札。

1の郭南東の虎口とみられる場所。形状が理解しにくいが、下からと上からみた写真。
ここには少しの盛土が見られた。

1の郭北側の石祠。

1の郭北側の祠近くから南側を見る。
1の郭の南側を撮ったもの。
1の郭の北側を撮ったもの。

1の郭から西側を見る。
本来なら目の前に花古屋城が見えるのだろうが木立で見えない。
1の郭から東側を見る。
木立で展望が利かないが、本来なら柏山城跡と小丸山、奥には米山城が見えるのではなかろうか。

1の郭北側の切岸。これが堀だった可能性がある。

北側切岸東端付近と、
それらに延長したと思われる東側斜面の竪堀。

西斜面のほうが判りやすいか。
これらは堀に絡んだのではと想定できる竪筋で、上図の二条の堀を想定したのだが、さてどうであろうか。

北へ続く道。西側(左)の麓には白山比咩神社があるが搦め手に関係するものか。

北側にある西側斜面のみに見える竪堀。
山口側斜面の傾斜がいくらか緩い為の防御か。

北から見た主郭側。中央奥が1の郭で手前右が竪堀。

付近の畑から見た「柏山城上の城」と「下の城」、「大久保の小丸山」。その奥に「砥石米山城」。

柏山城と豊城の間のこの山は気になるところ。





2018、四月再訪
2020、三月改稿

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