室町初期のものと考えられるそうで、「姫の墓」と伝承されるが、誰が何のためにつくったものかは不明。
一番上にのる細長い「相輪」を新しく補ったほかは、ほとんど完全な形を残しているという。
「姫の墓」と伝承される姫とは誰のことなのか。
根津城を隔てた祢津集落には江戸時代、信濃の歩き巫女「ノノウ」たちがいた。
また戦国期に武田信玄によって巫女頭に任じられた千代女は戦死した望月盛時(一説に信頼とも)の後家で巫女頭として巫女を束ね、くノ一の元祖とも言われている(実在も疑われるが)。その千代女の話やノノウたち巫女がこの地域に根付いた背景には、この地における姫(女性)の特殊性が示唆される。
室町初期に建立されたというこの宝篋印塔は、姫子沢という地名とともに興味深いものがある。
巫女さん眠る地参照。
姫子沢から見た矢立城。
ここでは姫子沢の延命地蔵尊が迎えてくれる。
姫子沢の延命地蔵尊。
高さは2mを超える。
台座の刻字に、江戸時代中期の享保5年(1720年)7月6日に石屋文七の手によってつくられたとあるという。当時姫子沢には「念仏講」があって、その声は谷をわたって城山あたりまでも聞こえたほど盛んだったと伝い、この地蔵尊はその人達がお金を出し合ってつくったものという。
姫子沢から見た根津城(下の城)。
姫子沢は祢津城と矢立城の挟間の集落で、根津城の西側に当たり、戦国期などは防衛の要地といえる。姫子沢に祢津氏関係の有力な者が居たのだろう。
「祢津(禰津)氏」参照。
2018、5月
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