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2019年12月5日木曜日

村上氏館@埴科郡坂城町大字坂城木の下

葛尾城の南山麓、村上氏の菩提寺満泉寺とその周辺を含めた南北 160m、東西 170mのほぼ方形をなす地域が村上氏代々の居館跡で、この周囲には壕の形跡を残しています。満泉寺地が館の中心で、内堀内にあたり、館の外回りにも堀をめぐらした回字形の館であったと考えられています。坂城神社は乾(北西)の方角にあたり、 艮 (東北)の方角に天福寺(村上氏の祈願寺・天台宗 、現曹洞宗大英寺 )、 巽(南東)方向に蔵屋敷の地名を残し、館跡の北西隅に厩屋敷、東北に栗田(村上氏の支族)、南方に下長屋の地名を残しています。西方の中ほどに、お堀橋という所もあります。(坂城町HP)


たしか、書籍「村上氏フォーラム」の中で笹本正治氏は、中世の館には凡そ規格があって170mにも及ぶ館というのには疑問がある旨の話しがあったと記憶しているが、成程、100m四方程の居館跡は確かに多い。
満泉寺の北側にはかつて土塁が残っていたらしく、それが北側の堀でそこから満泉寺を含めた南側一帯100m四方を居館跡と仮定すると違和感はない気がする。
但し、最終的に外郭と堀を拡張し回字形の城館になった可能性はありそうである。

村上氏が何時からここを居館にしたかは記録がない。
建武二年(1335)北条党に味方した薩摩刑部左衛門入道らを坂城北条の城に攻め落としたことが「市川文書」にあるが、それまで村上氏は千曲川西岸の村上郷が本拠地で、坂城に移ったのはそれ以後、「更級郡誌」等では元中年間❨1384~1391❩以後であろうとされ、「坂城町誌」でも元中元年、或は南北朝合一の元中九年❨1392❩❨明徳三年❩と考えられている。
そして村上氏が葛尾城を築き、周囲を要害城で防備したのは文明(1469~1487)以後ではないかと考えられている。❨「坂城町誌」❩

つまり、応仁の乱(応仁元年(1467)から文明九年(1478))の後、戦国時代に葛尾城を築き、その麓に居館を置いたのが現満泉寺のある館ということになりそうだが、村上氏が坂城に移った元中元年(1384)、或は南北朝合一の元中九年❨1392❩からここが居館であった確証はない。
村上氏居館は御所沢にあったという説もあるようである。❨「名将村上義清」❩

村上氏居館は、天文二十二年(1553)八月に葛尾城が落城し村上義清が越後国へ落ちたときに、御所沢の満泉寺と共に焼失。
後、天正十年(1582)、上杉景勝川中島四郡領有の時代、村上義清の子・村上国清(山浦景国)が海津城の城代を務めたとき居館跡に満泉寺を移設再建したという。


因みに、葛尾城は北条党に味方した薩摩氏らの坂城北条の城が前身との説もあり、御所沢には伝薩摩氏居館跡がある。
また、御所沢には満泉寺の前身である修善寺と、村上氏の廟もあったという。❨「名将村上義清」❩
館の中心にあたる満泉寺本堂。

満泉寺から見た葛尾城。
写真手前は本堂横の畑地で内堀内。



居館跡の石碑。

推定外郭の北東隅から。
本堂屋根、葛尾城尾根、遠く出浦城も見える。

推定外郭の東南隅。
幸橋が見えるが、日名沢川の谷は意外に深い。


推定外郭の南面。
如意輪観音。


推定外郭の南西隅。
西面の道は坂城神社参道でもある。

西面の満泉寺入口。

坂城神社鳥居。

この鳥居のところの斜めの水路が気になる。
お堀橋という所はここかも。



鳥居のところからの斜めの水路の一端は、満泉寺本堂裏に通っている。
北側にはかつて土塁があったというので、堀の名残かもしれない。


推定外郭の北面から。本堂屋根。


推定外郭の北東隅。


中世北信濃の雄、村上氏の居館跡である。


2019、10月初訪

2019年12月3日火曜日

村上義清公墓所(供養塔)@埴科郡坂城町田町

坂城町田町に村上義清公供養塔がある。
時の大官長谷川安左衛門利次と、村上の旧臣出浦正左衛門によって、義清の死後凡そ百年、義清の玄孫義豊の代に建てられたもので、越後五智の光源寺から分骨して埋葬したと言われている。
また、名家の遺跡のなくなるのを嘆いた長谷川安左衛門などは、この墓同時に往来の入口の石柱も建てたという。

村上義清は、元亀四年(1573)正月、糸魚川の根知城で病死している。(『寛政重修諸家譜』では、越後国魚沼郡赤沢城にて没)七十三才。戒名は「日滝寺殿正四位前羽紅雲正清公大禅定門」。
因みに、この三か月後に上田原や戸石城で激戦を交わした武田信玄も死んでいる。
村上義清の墓は越後五智の光源寺にある五輪塔であるといわれているが、一説には、義清が父の冥福を祈って建てたものとも言われている。
義清の墓は他に、越後春日山城麓の林泉寺、信濃の芋川にある村上氏墓地、そして、ここ坂城町田町に供養塔があるが、何れも供養塔という。

石柱と門柱、どれがどれか分からないが、右の穴の空いたのが石碑にある門柱かと思われる。
これが長谷川安左衛門などが建てたという往来の入口の石柱か。

明治三十二年七月 閻魔堂(十王堂)に子守りをしながら勉強する坂城小学校の特別学級が開設された。
十王堂の説明板にある、遊郭の少女達の教育の場として使われたことを言っていると思われる。
坂木宿は旧北国街道の宿駅として栄え、旅籠には飯盛女も置かれ隆盛を誇ったといい、明治時代には遊郭が置かれていた。明治三十二年は娼妓取締規則が制定された年だが娼妓稼業の一面を窺える。

閻魔堂とも呼ばれている田町十王堂。

田町十王堂(焔魔堂)
 閻魔堂とも呼ばれている田町十王堂。十王とは人の死後、初七日から三周忌までの間に冥途の十人の王が十回の裁判をして、来世の行先を決めるという、十王信仰に由来するものです。
 これは、中国の道教の影響によるもので、十王のうち怒った顔で有名な閻魔王の本当の姿が地蔵菩薩であることから、その信仰が盛んになるにつれて、閻魔王が十王の中心になったといわれています。
 生前に十王にお参りすると、死後の裁判のとき手心を加えてくれるとされ、信仰は人々の間に広まり江戸時代は各村落に十王堂が設けられていました。十王の祭りは正月と盆の十六日、つまり薮入りの日で閻魔の斎日とよばれていました。田町の祭りは盆(八月十六日)のみですが、地域住民により現在も賑やかに引き継がれています。
 明治初年、新政府の廃仏毀釈政策で檀家のない十王堂はすべて廃されました。そのころ田町の堂は、火災にみまわれましたが、諸像は運び出されて無事でした。庶民の十王に対する信仰は根強く、地区の公会堂を設けたときに、十王像などを安置し、やがて祭りも復活しました。地獄の沙汰も金次第といわれますが、人々にとって、来世で地獄に落されることは最大の恐怖だったのです。田町十王堂は、近隣の十王堂が廃されたことから多くの参詣客を集め、当地でもっとも人出の多い祭りといわれました。また十王堂は遊郭の少女達の教育の場としても使われ、出浦氏の墓地にあったお堂を利用して祀られたと考えられています。

 十人の裁判官と本地仏
 忌日  十王   本地仏
 初七日 泰広王  不動明王
 二七日 初江王  釈迦如来
 三七日 宋帝王  文殊菩薩
 四七日 五官王  普賢菩薩
 五七日 閻羅(魔)王 地蔵菩薩
 六七日 変成王  弥勒菩薩
 七七日(四十九日) 太山王  薬師如来
 百ヵ日 平等王  観世音菩薩
 一周年 都市王  大勢至菩薩
 三周年 五道転輪王  阿彌陀如来

 平成十九年三月
 田町区
 坂城町教育委員会


十王堂の裏に村上義清公墓所はある。
武田信玄を唯一討ち破った勇将 村上義清 信濃を舞台に繰り広げられてた「川中島の戦い」。戦国屈指の好敵手、武田信玄と上杉謙信ばかりに脚光が当たるが、この合戦のきっかけを作ったのは信濃の剛勇・村上義清。坂城一帯の領主だった義清は、電光石火の早業で、信濃全域の掌握をもくろむ信玄の前に立ち塞がり、一度ならず二度勝利している。


 村上義清公墓所
この墓所は、第三代坂木代官長谷川安左衛門利次が、名家遺跡の忘失を憂え、戦国の雄将村上義清公の墓所建設を思いたち、明暦三年(1657)義清公の玄孫義豊や村上氏の臣出浦氏の子孫、正左衛門清重らにはかり、自ら施主となって出浦氏所有の墓地に、義清公供養のための墓碑「坂木府君正四位少将兼兵部小輔源朝臣村上義清公神位」を寄進によって設立したものである。その後、寛保二年(1742)清重の子清平が玉垣を築き、寛政三年(1791)清平の子清命が、石柱「御墓所村上義清公敬白」を建てた。 昭和四十五年以来諸整備補修が行われ、昭和四十七年墓碑の上屋と鉄柵が設置された。平成八年には全面的改修となり、現在の諸施設になった。
 平成八年三月
 坂城町教育委員会

墓碑
右側面には、「上奉寄進石塔一本長谷川安左衛門利次施主」
左側面には、「上、玄孫義豊代」
裏面には、「上、村上旧臣出浦正左エ門清重」とあるらしい。

墓所隣には地蔵。

墓所左側。
墓所右側。出浦氏の墓か。
ここに出浦氏の墓があるなら、出浦氏の館も近くにあるかもしれないが、今のところ筆者は言及した書物に出会っていない。

村上義清公墓所は満泉寺の所有で、住職によって法要が営まれているそうである。


2019、10月初訪

2018年5月13日日曜日

柏山城(古城)@上田市

村上連珠砦群のひとつで、東太郎山の南尾根のひとつに築かれ、金剛寺集落を挟んだ東の尾根には砥石城。西の尾根先端には豊城。更に西の太郎山の南尾根には花古屋城があり、よく知られている。柏山城と直接的に連携がありそうなのはこのあたりだろうか。ただ地勢を見るに、他にも小さな砦程度のものは在りそうである。
村上連珠砦群参照。
豊城参照。
花古屋城参照。
砥石城参照。


柏山城と砥石城
砥石城が上小地域の重要な拠点であったことは、砥石落城によって村上義清が坂城の本拠を捨て越後に落ちた事をみてもわかる。
その砥石城と城下の金剛寺集落の西の要地にあたる。

柏山城絵図

大久保集落の高速を潜った所が登上口。

鉄塔の近くの祠。ここからがスタート地点といえる。











柏山城下の城主郭。


下の城のL字形の腰郭。

下の城の北側の堀切。

下の城と上の城の中間地点あたり。
この辺りは複雑な地形をしているが、東側斜面には畑作地跡らしき形跡があった。

 そこからは瘤状の切岸が4連続する。
 虎口状になった切岸。


わかりづらいが西側竪堀。

東側斜面。
上の城の大手と思われる。この上が主郭である。

少し回り込んでみる。

振り返る。左上が主郭。この岩場を登ることになる。

岩場の上。

先に主郭の切岸がみえる。

主郭の切岸。石積跡が見受けられる。


上の城の主郭。土塁の形跡はなさそうだった。


西山城というのがあるらしい。
金剛寺集落の西、柏山城上の城からに突き出た尾根に西山城砦群がある。
村上氏時代より古い海野氏時代、金剛寺集落の西の守りに関わるものとの考えもあるが、立地的に柏山城にも関りはありそうで、寧ろ柏山城上の城は海野氏時代に起源があるのではとも考えられる。

北側から見た主郭。

北側の大きな堀切。
写真では判らないが二重の堀切である。

柏山城上の城主郭から見た砥石城。

柏山城上の城主郭から見た豊城方面。

主郭北側の堀切の切岸。



二重であるのが判る。
堀から見た主郭。感動。

堀越しに見た主郭。

少し北の埋もれた小さな堀切。

更に北の平坦地。
そして確かに窪地。
池ノ平というのはここらしい。
「信濃の山城と館」ではここに小屋掛けしたとある。

2018.四月初訪
2019、3月西山城の項追記

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...