これによると開創は、開基が祢津上総輔信貞、開山が拈笑宗英、宗派は禅宗曹洞派で、宝徳元年(1449)のことであったとわかる。
鎌倉時代から禅宗の寺は多くあったが、それらは栄西の教派に属する臨済宗であり、道元系・永平寺系の曹洞宗は信濃では室町初期に一寺が建立され、室町中期以降次第に増加し戦国期に爆発的に盛行したという。
信濃の曹洞禅寺の開創は古い順に、応永十一年(1404)大町の霊松寺(仁科氏)、宝徳元年(1449)祢津の定津院(祢津氏)、文明十五年(1483)岩村田・の臨済からの改宗(大井氏)で、竜雲寺の天英祥貞和尚の力により、佐久の正眼院、水内の興善寺(牧の島)、高井の興国寺なども開き曹洞宗がひろがったという。
祢津信貞は東信濃における曹洞宗の先駆けであった。(以上「東部町誌」より)
拈笑宗英禅師は曹洞宗の拈笑派の祖である。最勝院(静岡県伊豆市宮上)の吾寶禅師に師事し、雲岫 、南極、模菴、洲菴と共に五哲に数えられ、最勝院の2世を勤め、文安4年(1447)には武田家の招きにより甲斐に東林院(山梨県甲州市勝沼町小佐手)を開山するなどしている。
四世海秀玄岱禅師の天文十年(1541)に「定津院の諸堂を焼失した」とあり、「東部町誌」では武田・諏訪・村上連合の海野攻めのためだろうとある。
七世年室宗長禅師は定津院に来る前、天文二十二年(1553)に丸子町腰越の全芳院を開いている。
天正十二年(1484)、祢津昌綱と欣隆禅師の記述がある。(「東部町誌」より抜粋)
安永二年(1773)に建立されたという山門 。
定津院の裏山の墓地には祢津氏歴代の墓がある。
宝篋印塔や五輪塔があるが、室町末期から戦国期のものが多いという。
開基が祢津上総輔信貞、宝徳元年(1449)のことであったというが、祢津氏は大塔合戦(1400)や南北朝時代はおろか、平安期の保元の乱・平治の乱(1156・1160)、源平合戦(治承・寿永の乱1180年ー1185))、承久の乱(1221)にも名を残す氏族である。
平安期は兎も角、鎌倉期のそれらの墓なり供養塔なりはどこかにあるのだろうか。
また、岩井堂にある御姫尊は別院であるという。
2018、5月再訪
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