2018年12月13日木曜日

横道の十九夜講@上田市真田町傍陽横道

横道三区(上横道区・中横道区・下横道区)が合同で行っている十九夜講がある。ムラの辻にある如意輪観音を祀る講で、この像を十九夜様とも呼んでいる。各区の16名の主婦が当番にあたる。祭日は3月19日である。この日の当番は、十九夜様へ幟を立てたり、公民館に祭壇を作り掛け軸をかけ、団子を作りお供えをしたり豆煎り持ち寄った煮物などもお供えする。(真田三代 傍陽コースより)

横道三区が合同で行っている講で、ムラの辻にある十九夜様(如意輪観音(にょいりんかんのん))をまつり、安産を祈願して行われる。祭日は3月19日で、この日に当番は祠に幟(のぼり)を立て、公民館の正面に祭壇を作り、掛け軸をかけて、仏像を飾る。だんごを作りお供えし、豆煎りや持ち寄った煮物などもお供えする。十九夜様へ参拝した後、お念仏を行い、その後は、各自ごちそうを持ち寄ったものや、だんごをお参りに来た人に分けたり、自分たちも食べたり語り合ったりする。なお、昭和初期まで二十三夜講があったという。(「上田市文化財マップ」

十九夜講は別名を子安講ともいい、安産や子育てを祈願する女性の集まりで、毎月19日の夜に集まり、祈願していたことから十九夜講となったものらしい。
信仰という側面と、女性たちの息抜きの場という側面があり、こういった月待ち講は、江戸時代の文化・文政のころ全国的に流行したという。

また写真中央の勢至菩薩の月待塔が二十三夜講の本尊だろう
現在は近くの公民館で行われているようだが、昔は近くに月待堂などがあったかもしれない。




「月待ち」は16世紀に京都の公家社会で二十三夜待ちが行われていたものが、やがて民間信仰になったとされる。
十九夜講も月待ち信仰を起源の一つとしている民俗信仰で、神道では月読命。仏教では如意輪観音が本尊として祀られるものという。
如意輪観音は、十九夜、二十一夜、二十二夜など「月待ち」信仰の本尊で、そのほとんどは女人講という。
古より月の満ち欠けが生命力と深いかかわりをもつと信じられてきたものが、宗教とつながり安産や子育てを祈願する信仰となったのかもしれない。


他に石碑と石塔があった。
石碑。読めないが筆塚のようだ。
手前の石塔は不明だが石仏か。



道を挟んだ北に「番屋跡」の石碑。
そして東屋。
幕末期の絵地図には、ここに番屋と記されているという。近くの「横道の館跡」と関係はあるのだろうか。

道路の東側には大きな常夜灯がみえる。

常夜灯塔身には「奉燈石尊前天保六末仲秋」と彫られているという。
「石尊」というのは天狗岩に祀られている神様で、そのはるか前方に造られたのが、この常夜燈である。かつて上ノ海戸(上の街道)からの川がしばしば洪水を起こし、それを防ぐ目的もあって、この様に大きなものを築いたと伝わる。
石尊は元々は神奈川県伊勢原市大山の阿夫利神社の神様、大山祇神で、農業の神・雨乞いの神といわれている。昭和二十年代の終わり頃(一九五五頃)までは青年団を中心に石尊の祭りが行われており、法螺貝を鳴らし御神刀で邪気を払っ家々からお寒銭やお米などを集めていたという。(「日本ダボス」(平成19年12月22日発行)堀内泰氏寄稿「ふるさと、原風景と私」より引用)

また同氏は、辻の北の道は若穂保科へと通じ「保科道」とも呼ばれ、東に向かった道は穴沢・三島の集落を通り菅平ばかりか大日向にでる山道もある。
縦の道である保科道に対して横に開かれた道、これが 「横道」という地名のおこりと推測されるとしている。

常夜燈脇の細い道は旧道で、この辻に番屋、月待塔や石塔が集まっており、この付近の中心的な場所であったと想像できる。

中央の尖った山頂付近が「天狗岩」らしい。

追記
「天狗岩」の東の尾根には三峰社があり、三体のお犬様が祀られているといい、他にも木曽の御嶽も付近に勧請されているということである。


2018、12月再訪
2019,1月三峰社のくだりを追記

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