現満泉寺のあるところは館跡の本郭にあたり、南北150m、東西170mに及ぶ回字形に堀を巡らしていたとされる。
館跡については村上氏館跡で。
村上山と号し、本尊は釈迦如来、曹洞宗上野国甘楽郡西之牧村長楽寺末寺であった。
寺伝では、応和三年❨963❩、天台僧延昌により御所沢に創建され、初め修善寺といい、後村上氏代々の菩提寺となった。
修善寺は永正元年❨1504❩、村上顕国の志願により曹洞宗に改宗、上州長楽寺三世の宝室見尊禅寺を請じて中興開山となし、顕国の法号満泉院殿にちなんで村上山満泉寺と改めた。天文二十二年❨1553❩、武田信玄の侵攻による葛城落城の際兵火にかかり焼失した。天正十年❨1582❩、上杉氏が川中島四郡を領した時、義清の子国清❨景国❩は上杉氏の命により松代海津城将となり、翌十一年❨1583❩、坂木に帰り、村上氏累代の墓所御所沢の満泉寺の荒廃を見て、先祖の冥福を祈って村上氏居館跡、木の下の現在地に寺域を移し緒堂を再興した。
本尊の石造釈迦如来座像は、もと修善寺の本尊で鎌倉末期の様式をもつものという。
刈屋原の泉徳寺、小県秋和の長昌寺は満泉寺の末寺として建立されたという。(「坂城町誌」)
門柱と「村上氏の居館跡」の石碑。
直角に折れた参道と石碑たち。
山門。
鐘楼。
本堂。
現満泉寺のある「村上氏居館」と、御所沢にあった「満泉寺」は、天文二十二年(1553)八月に葛尾城が落城し村上義清が越後国へ落ちたとき共に焼失した。
天正十年❨1582❩「本能寺の変」で森長可が信濃を去ると、上杉氏が北信濃を領有。山浦景国(村上国清)は海津城主となり父義清時代の旧領を回復。そのとき居館跡に満泉寺を移設再建したという。
御所沢にあった「満泉寺」は初め「修善寺」といった。
御所沢の修善寺跡付近には、「塔の平」、「シャガ❨志賀❩」の地名があって、「シャガ」は修善寺があったとある所で、「塔の平」には村上顕国の墓❨「村上顕国の碑」❩と村上関係家臣の墓という十基の墓石があり、村上氏の霊廟があったという。❨「名将村上義清」❨水出熊雄❩❩
永正元年❨1504❩、村上顕国志願に因って天台宗を曹洞宗に改宗、上州甘楽郡長楽寺三世の宝室見尊禅寺を請じて中興開山とす。❨「村誌」❩
村上顕国により改宗し禅宗満泉寺を中興開基(更埴人名辞書)とも伝わる。
義清が父顕国の法号満泉院殿にちなんで村上山満泉寺と改めた。❨「村誌」❩
天文二十二年(1553)義清の越後落ちに伴い焼失。
天正十一年❨1583❩、義清の子国清❨景国❩によって現在地、村上氏居館跡に再興した。
2019、10月初訪
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