この一帯に勢力のあった下城氏(下条氏)の屋敷地とされている。
「信濃の山城と館」によると、下城氏は、蓮華寺の大檀那で江戸時代には庄屋をつとめるなどしたと言われるが、明治初年に火災に会い望月町の方へ出たと言われる。その時に書状等を失ったというが、家伝では京都より来て土着したと言われ、長林地籍に墓地があり「長林の家」と呼ばれたという。
「長野県町村誌」の「長林邸跡」との関係や、「日本記」の景行天皇五十五年、彦狭島王が春日穴咋邑(あなくひむら)に至りて薨し給うという伝承との関係などが問題になるが、史料等全くなく今のところはっきりしたことは不明。下城氏は江戸期までは下条氏とも言われ、880坪の屋敷があったと伝えているという。
「信濃の山城と館」から丸パクリしてしまったが、資料が無いのでしようがない。
別府山蓮華寺は、平安時代中期治暦3年(1067)に創設されたと寺に伝わる真言宗派の寺院で、中世には十二の塔頭を有したという古刹である。
長林屋敷は、「諏訪符札之古書」文明二年(1470)に春日代官、長城新兵衛道光と見える邸の址といわれる。
彦狭嶋王は豊城命の孫で、景行天皇五十五年(125年)春二月五日、東山道十五国の都督に任じられたが春日の穴咋邑にて病で亡くなった。東国の人民が秘かに屍を盗み上野国に葬った。 翌年、彦狭嶋王の御子・御諸別王が父に替って東国を治めたという。
彦狭島王の春日穴咋邑は、奈良市古市町で猿田彦を祀る穴栗神社の一帯がその伝承地とされるが、旧望月町にも春日地区一帯に比定する考えがある。
また墳墓と伝承されるものは各地に幾つもあるそうだが、ここの近く諏訪王宮神社境内にも伝承のある古墳がある。しかし実際は古墳の方が300年以上も新しいものらしい。
現在民家のある833-1番地のところに880坪の屋敷があったと伝えるが、土塁などの痕跡はないという。
堰は開発所領の生命線で、開発領主の館は用水の要所に置かれることが多いようである。
比田井堰がどこから取り入れられ、どこへ向かっているかの確認はしていないが、この高台を流れていることを考えると、北側の比田井方面へ水を引こうとしていると思われ、比田井の開発領主に関わると考えられるか。
関連は不明だが比田井には内城(比田井の城山)がある。
追記・春日城の西に向反の館(殿様屋敷)がある。比田井堰はここの堀の役目も果たしており、「信濃の山城と館」では、まず比田井堰が出来て堀割をしたとみられ、石の開発と深い関りが在ろうとしている。ここの城主については春日氏の関連が強いと見られているが、既筆のように筆者は伴野氏系春日氏ではと思う。
「望月町誌」では三明・句領など付近の地名から、国衙の存在が想像でき奈良時代以前の歴史も考えられるとしている。
寛正三年(1462)には伴野氏の代官、鷹野氏が、文明二年(1470)には長城新兵衛道光が伴野氏の代官として春日に地にあった。別府は伴野氏が得分権を手にした伴野荘春日郷の最初の開発部分ではなかったかとしている。
そうであるなら、別府にある蓮華寺や境沢の屋敷は国衙の役人のものというより、鎌倉時代初頭以降の伴野氏に関係するものである可能性が高い気がする。
下城氏の京都より来て土着したと言う家伝や、彦狭島王の伝承等はいろいろと想像は出来るがこじつけになりかねないので控える。
北側を見る。
屋敷地自体が高台上であることがわかる。
2019、6月初訪
2019、6月向反の館(殿様屋敷)の件追記
0 件のコメント:
コメントを投稿