「長野県町村誌」に、「諏訪符札之古書」文明二年(1470)春日代官、長城新兵衛道光と見えたる邸の址ならんとする。
「春日温故記」では長城新兵衛を長「林」城新兵衛道光と読んでいるという。
「春日温故記」では長城新兵衛を長「林」城新兵衛道光と読んでいるという。
「信濃の山城と館」は、位置の特定が難しいとしながら古図と地名から該当地を推定している。
西側至近には境沢の屋敷があり、蓮華寺と別府の地名、その北の方に比田井の城山や彦狭島王の御陵という古墳。南に行くと春日本郷の館と春日城がある。
細長い丘の北端は墓地となっている。
「信濃の山城と館」ではここではなく、南側の堀切道路までの半分を推定している。
東側。
「望月町誌」では、古い地名である「別府」は付近に国衙領を想像させ、別府付近は伴野氏の開発に関わるものだろうという。
寛正三年(1462)には伴野氏の代官、鷹野氏が、文明二年(1470)には長城新兵衛道光が伴野氏の代官として春日に地にあった。しかしここの場所と関りがあるのかの確証は無いそうである。
天文十年(1541)武田・村上・諏訪連合軍が海野氏を攻めるまで、春日には「祢津氏流春日氏」と「小笠原流伴野氏の春日氏」があり、祢津氏流春日氏は本郷春日付近、伴野氏流春日氏は別府付近に共存していたのだという。
2019、6月初訪
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