望月城から見た天神城 |
「長野県町村誌」では「天神林城」、古地図などに「高呂城」の名もあるという。
「望月町誌」によると、文明十一年(1475)大井氏と戦い勝利した伴野氏が、周辺の大井氏領にはばかることなく八丁地川から水を引き天神付近に開発を進め、所領として台地の先端部に第一期の天神城を構築。野沢・前山近辺の所領と共に貞元系の伴野氏が伝領してきたとし、天文十年(1541)武田・村上・諏訪連合軍が小県郡の海野氏を攻め、春日では祢津氏流春日氏が没落し村上氏の勢力が及ぶ。
しかし、天文十二年(1543)武田晴信の長窪城大井氏攻め、望月氏成敗とこの頃には村上氏の押さえも無力化していたと思われ、一方の武田氏も長窪や望月に家臣を配置しての占領地統治はなされていないようであるので、天文十二年以後の間隙をついて動いたのが依田氏であろうとする。
「千曲之真砂」巻八に、この城を「高呂城」とよび、永禄年中、依田小隼人居す。古戦、伝記未だ詳かならず。里老いわく、是は天神林村の西山なり。天神林城と云う。高呂村にあらず。又いわく、これは依田信藩の従弟なり。本氏芦田と云々。私にいわく。
今、芦田古町竜田山光徳寺に碑あり。好庵道雲庵主、高呂城主俗名依田小隼人(名乗りを記さず)とこれあり。
「長野県町村誌」にも、(前略)高呂組に対するを以て高呂城と称せしは、芦田村光徳寺の過去帳に高呂城主依田小隼人と見え、千曲之真砂もその名を載す。これ天文中芦田下野守信守、家名を起こせしより、信蕃・康国に至る三世中に居城せしか。(後略)
「望月町誌」では、これらは中世末の古地図に依田小隼人とあるのを見た上での見解と思われるとし、室町後期、武田氏来攻の時まで、春日の地には「祢津氏流春日氏」と「小笠原流伴野氏の春日氏」があり、後者の「伴野流依田氏系図」にある「守直」の注記に「依田小隼人、生国信濃。信州勝間の城を領す。芦田右衛門佐信蕃が一族となって、伴野を改めて依田と号す」とあるとある。
つまり、祢津氏流春日氏と共に春日に在った伴野流依田氏は、依田信蕃の系の一族となり、所領を守ろうとしたが、天正十一年(1583)依田信蕃によって勝間城の守りにつくことになったということらしい。
また「望月町誌」では、天文十八年(1549)武田晴信の川西地方への来攻のとき、「高白斎記」に「三月九日、芦田四郎左衛門、春日の城を再興す。」「四月三日、敵の働きにより、春日の城落城、味方勝利」とある内、どちらか一方の春日城が天神城で、一方が春日本郷の春日城であろうとしながら判断はできないとしながら、「三月九日、芦田四郎左衛門、春日の城を再興す。」が天神城ではと示唆している。
天正十八年(1590)依田康真の上野国移封によって天神城は廃城となったであろうが、七つの郭となった第二期天神城の修築時期は、早くても天文十八年で、あるいはその後の伴野流依田氏、または信蕃系依田氏の手になることも考えられるとのことである。
追記事項としては(1)北側に石積跡が見られるのと、(8)の土塁は東側にもあった形跡、北端部の情報くらいのものである。
南のトンネル上、公管社の南方から。
右の森が管公社で、中央緑の小屋の向こう側の桜の木のところが(8)付近となる。
地元の方の話しではこの南側にも古い田割の形状から二つの堀があったのではないかと話されていた。しかし現状では全く痕跡もない。
(1)郭にある望月町時代の教育委員会の案内板にも「…鹿曲川と八丁地川に挟まれその合流地点から協和小学校(現望月小学校)まで続く南北1500mの尾根が天神城跡である。…」とするが、「信濃の山城と館」では、それは無理で、(サ)の堀を南限とみてよいとしている。
ただ、協和小学校(現望月小学校)の台地東側に深く切り込んだ崖地形があり、その延長線上に防備施設が敷かれたと考えるのもおかしくはない。上田神科の金剛寺にも谷の入口付近に高土手なる防備施設があったというし、本能寺の変後にこの地で依田氏と北条氏が激しく戦ったらしいことを考えると天神城の城域とは違うかもしれないが可能性は無くはないのではないだろうか。また筆者は地形が変わる管公社付近(下の写真)にも堀が在った可能性を感じる。
管公社の上の東西の道。管公社のあるところがえぐれた地形なので、この道の北側畑地にも堀があったかもしれない。
管公社。
「望月町誌」に、天神城は字本城であるが、菅公神社が「天神」とよばれる地名のもとであろうが、いつの時代かに西の方・天神反より今の地に移された伝承を持ち、菅公神社のある位置からみると、城に祀った神ではなく、集落の信仰の宮であるとある。
管公社から台地の反対側、つまり東西の道の西側。
「信濃の山城と館」の縄張り図では写真の桜木の所から城域として描かれている。
はっきりとした堀遺構として残っているのは確かにここから北域である。
(8)北側の堀の東側。墓守の桜がうつくしい。
土塁跡に立つ一本桜と袂には石祠。
かなりの樹齢と思われる立派な桜の大木で、ちょうど見事な花を咲かせていた。
せっかくなので携帯撮りだが少し。
桜の名木として認知されていないのか、来年は一眼レフを持って訪れたい。
さて、(8)北側の堀の西側。この城の特徴である腰郭と竪堀も確認できる。
(7)の郭。
(6)と(7)の間の堀。
(5)の郭も同様で、(4)の郭にい至っては近づくこともできなかった。
(7)と(8)の間の堀の所から下る道があるので、(1)の郭へはここから一旦麓に下りて迂回することになる。
比高が無いので大した回り道ではないが、中間の遺構を見れないのは残念。
(1)の主郭部が見えてくる。
まず目の前に現れる盛土と祠。
案内板と浩宮徳仁親王殿下御見学記念碑。
天神城跡(望月旧城)
鹿曲川と八丁地川に挟まれその合流地点から協和小学校まで続く南北1500mの尾根が天神城跡である。
北東に位置する望月城跡の前代に望月氏の居城であったといわれ、鎌倉時代の望月三郎左近将監重隆の全盛期に築城されたと推定される。主郭に残る高さ5mもの土塁や十数本もの空堀り、腰曲輪や帯曲輪など構造や規模が極めて雄大である。
建武二年(1335)八月一日に信濃守護小笠原貞宗が経氏に命じて望月城(天神城跡)を攻撃し、合戦の末落城したとあり、南北朝時代には落城したことを伝えている。
望月町教育委員会
大土塁。
土塁裏(南側)の堀切。大堀切と言ってもよい。大土塁と大堀切のコンビネーションはやはり素晴らしい。西斜面の下には麓の道路が見えるが、かつては天神城西側にはすぐ裾を八丁地川が流れて堀の役目をしていたと想像する。
(1)の主郭全望。かなり広い。
(2)の郭自体は笹藪と竹藪で幾らも侵入できなかった。なので(1)に登った道を麓まで下り、里を迂回して威徳院の所から三峯社に登ることになる。
(1)の主郭部への登る口。ここへ降りてくる。
里から見た天神城のシルエット。中央が(2)の郭と思われる。堀切の左が(1)だろう。(2)と(3)の間の堀の大きさがよく分かる。見れなかったのが残念だが(3)郭からは見ることが出来る。
三峯社。石祠自体は明治のものらしい。
(ア)の堀はよく分からなかった。
国道142号線によって寸断された尾根。
この先の北端部は三度麓に下りて迂回することになる。
(イ)の堀。
(3)の郭。奥に(2)の竹藪が見える。
(ウ)の堀。
堀の南は(2)郭だが、やはりこちら側からも進入する隙は無いようである。
天神城の最北端部。
八丁地川と鹿曲川は望月総合体育館のある山の西がわで合流しているが、川に挟まれた段丘上には尾崎古墳群があるので昔から川筋はそう変わっていないと思われる。
よって城域は、八丁地川と鹿曲川に挟まれた段丘上までを含むか、それとも国道142号線によって寸断された尾根の位置に相当の堀割があって境界としたかだと考えられるが、尾根上の(ア)と(イ)が浅い堀であること、この北端部尾根にも二条の堀と思われる地形を確認され、尾根最北端まで城域として普請されたようで、それらを考えると両川合流地点まで備えがあったようにに思う。
写真は鹿曲川。左の段丘は西側を流れる八丁地川にはさまれている。奥の山は望月城。
この位置は望月城砦群の胡桃沢嶺砦と東西に対面し、天神城自体も望月城砦群南尾根の旗塚群(仮)に対面している。これらの関連性と時代背景がわかると面白いかもしれないが、筆者にはいまいち把握できていない。
天神城の最北端部。古墳状の盛土上には「万治の石造大日如来」がある。左胸部に万治2年(1659)大日如来、右胸部に5月□日、左ひざ部に天神林、と読みとれるが、その他の刻字は読みとれないという。石仏が民衆により造立されるのは寛文時代以降で、それ以前の造像は貴重という。
一帯は墓地で、裏手に竪堀状の溝があり、これは尾根の反対側まで行っているので堀切でよいと思われる。
東側斜面の大岩。
北尾根上に加工の形跡はほとんどない。
国道142号線によって寸断された尾根。
どの位置にあったか覚えていないが石仏があった。
以上が今回歩いた天神城域である。
教育委員会の案内板と「望月町誌」とは、天神城の見解に齟齬があって混乱するが、
天神城側から見た布施境の山尾根。左の方の峰が望月城砦群の胡桃沢嶺砦であろう。
鹿曲川から見た天神の集落と天神城。
天来公園から見た天神城の台地。
望月城や布施方面との関連も後に考察して追記したい。
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