現無量寺から見た西側にある尾根が「無量寺廃寺址」。
東の倉見城と西の芦田城のちょうど中間の尾根に位置するが、芦田氏や米持氏らとの関連は不明。
筆者は現時点で書籍資料等にあたっていない。よって現無量寺の案内板をコピペしておく。
「無量寺は、天台宗比叡山延暦寺の末寺で、本尊は薬師如来とされ来迎山無量寺という。この寺は長保五年(1003)三月創立といわれる。開山は僧恵心院源信とされているが、中期に兵火を被り、かつて茂田井南側にあったものを現在の地に移したといわれる。兵火に遭う前の無量寺は正林寺白山堂の仏閣があったことから旧地を現在大字無量寺とよんでいる、付近には正林寺・白山堂・五輪沢・五輪窪・大門脇・塔婆等の地名が残っている。 寺宝として焚文のある青石の古碑三面大黒天の古像と、大なぎなたがある。境内は東西約六十八米弱(三四間)南北約三十六米(十八間)面積二百七十二平米(六百二十八坪)あり、舊除地は石高十八石、五斗九合であったと云われる。
薬師如来本尊は檜材座像(高さ二尺八寸四分)で脇侍に日光・月光両菩薩を持ち、室町時代のものとして佐久地方では注目されている作例である。」
立科町教育委員会
立科町文化財保護委員会
無量寺廃寺の東北の麓は五輪窪というという。
乱立する五輪塔群を期待していたが畑地跡であった。
東側に道はあるが西側は何段かの畑と土手。
振り返ると甕の集落。
さらに登って坂が緩くなって、西への道が分かれる辺り。
もとは畑地と思われるが藪化が進んでいるが、平地と窪地の混在した結構な広さの平地で、寺の施設が建つには好条件かと思われる。
西への道は南に折れていた。
ここまでの間が寺跡と想像するが実際のところはどうであろう。
東側に平らな高台もあるが、無量寺廃寺がこことも思えない。
やはり、その西側の竹林や藪のところが中心地であろうか。
2019、5月初訪
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