「望月町誌」では、倉見城のある倉見の沢は、野方・塩沢・畑谷方面から、福王寺の脇を経て三井・小平・比田井・布施春日へ通じる道の脇にあり、古くからの交通の要所をおさえる位置にある。倉見城は山城ではなく居館であり、伝承にあるとおり米持氏流芦田氏のものであろうとし、高井郡の米持氏の一族が佐久の甕に入り甕氏を名乗ったものと思われるとしている。
長野方面の誌史は未見なのでネット情報に頼るが、「信濃路探訪」米持城跡(米持氏館跡)・米持氏に関して、に「井上家光の子の米持忠義は、保元2年(1157)に米持城(館)を築城し、姓を「米持」に改め、以後代々居城(居館)したといわれている。」とある。
「尊卑分脈」によると、甕氏の祖という「芦田二郎光遠」は家光の孫になるが、父光平の兄が忠義である。
仮に、保元2年(1157)頃に光遠が出生して、30才の頃に佐久に入ったとすると、文治3年(1187)の頃となろうか。頼朝は文治元年(1185)年に諸国に守護・地頭の設置を裁定しているので、二郎光遠はこの頃に地頭として佐久甕に入った可能性も考えられる。
鎌倉時代の「承久の乱」承久3年(1221)、「承久兵乱記」の中に「甕中三」の名があり文脈から佐久の人と考えられ、「承久記」に甕三郎、太平記に甕次郎左衛門が見えるという。
永享8(1436)年、幕府は信濃守護小笠原政康に芦田征伐を指示しているが、それは滋野氏系芦田氏であるとか、依田系芦田氏であるとかいわれるが、この米持氏流芦田氏(甕氏)との関わりも気になるところ。
天文年間(1532∼1554)に米持主殿介が居城というのは、おそらく佐久平賀の尾崎祐一氏所蔵の天文二年の古図「戦国時代佐久郡城主配置図」によろうと「望月町誌」にある。
最近まで付近に「日の出地蔵」があったらしいが、茂田井の諏訪神社に移されたらしい。
倉見城主米持庄司の御代に一休禅師の開眼にかかわる霊佛で、天正年間(1573~1592)倉見城が落城霊佛は大破。文久年間(1861~1864)土に埋もれた地蔵尊が発見され茂田井の徳間峰に祭られ、その後この地に移された。 同時に発見された徳間山倉見寺大日如来像もここに祭られていたとのことである。
諏訪社は未訪。徳間峰はどこだろう。
倉見城は別名茂田井城とも呼ばれ、天文年間(1532∼1554)米持主殿介居城といわれる。米持氏は源頼信の流れをくみ高井郡井上城を中心に勢力を持っていた井上三郎満実の子、三郎五郎家老が同郡米持に移り住み米持を名乗った。その子孫が佐久へ来て居住して「倉見城」を築いた。
その後、芦田二郎光遠の代に倉見「木の宮」に築城し、芦田庄司となり甕(もたい)氏を名乗った。
この城は延徳元年(1489)六月甲斐の大軍が佐久郡に乱入し、六月八日当城を攻めた際、甕(もたい)米持庄司は戦死したと伝えられて、その後この城は芦田氏とともに武田氏に帰したとされている。
この背後にある小高い丘が「倉見城跡」であり城には堀二条が残されている。
信濃地名考には、この倉見城開祖甕(もたい)氏(芦田二郎光遠)を佐久四党の一つと記しており、廃城は天正十五年(1587)頃と伝えられている。
立科町教育委員会
立科町文化財保護委員会
延徳元年(1489)六月甲斐の大軍が佐久郡に乱入とあるが、実際は天文九年(1477)である。
堀二条が残されているとあるが、現状では一条しか見当たらない。
「佐久四党」とは大井・米持・伴野・相木で、文明・長享の頃から天文・永禄・天正に至るまで之を称すという里伝によるものである。
倉見城は、比高20m程の丘に築かれているが、東西の山尾根はそれより高く視界が開けるのは北側のみである。茂田井から小平に抜ける山道の口元に当たることから、この道の監視が目的のものと思うのだが、居館も兼ねたものとされているので東西の両尾根にも何か施設が在ったのかもしれない。
山道の小平側にある福王寺も関連が気になるところである。
(10)の郭。
耕地整理前には、さらに北に微高地が続いていたという。「信濃の山城と館」では(10)が大手で最も広く、(9)(10)あたりに屋敷が在ったのではなかろうかとしている。
文政・天保のころ、古銭、南京製の中皿10枚が掘り出されたというのは、もしかしたらここかもしれない。
(7)の郭。
南側の(1)の郭側からも(2)(3)(8)は竹藪で侵入困難である。
(1)の郭。
(1)から見た南の堀切。
南の堀切。
南の堀切東側。
倉見城東側面。本来は堀の役目をしていたろう沢が流れている。
倉見城西側の山尾根。
2019、5月初訪
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