春日城・本郷の館跡(康國寺)から北西300mのところ、鹿曲川の西岸の段丘上にある。
この段丘上の台地には比田井堰が築かれているが、この堰が堀の役目も果たしており、「信濃の山城と館」では、まず比田井堰が出来て堀割をしたとみられ、堰の開発と深い関りが在ろうとしている。
堰が周囲より高い段丘上を通っていることは比田井地籍の開発をねらったものであろう。堰はこの先、伴野氏に関わると思われる境沢の屋敷(下城氏屋敷)を通っているが深い関連が推測される。
比田井堰は伴野氏流春日氏の支配地にひかれた堰と受け止められ、既筆のように筆者は伴野氏系春日氏ではと思う。
春日には、天文十年(1541)武田・村上・諏訪連合軍が海野氏を攻めるまで、「祢津氏流春日氏」と「小笠原流伴野氏の春日氏」があり、祢津氏流春日氏は本郷春日付近、伴野氏流春日氏は別府付近に共存していたのだという。
祢津氏流春日氏が用水堰を開削し、春日本郷に「春日本郷館跡」と春日城を築いたのは、1180年頃であったとされ、伴野氏流春日氏も別府の地名から国衙を想起でき、平安末期から鎌倉と、どちらも同じ時代まで遡れそうである。(望月町誌より)
鹿曲川と比田井堰に挟まれた段丘上で、一帯はほぼ畑地になってる。
明清寺の北側には土塁跡が残り、繁福寺跡の北には掘跡がきれいに残っている。
掘跡の北は段丘が続いているが、畑に墓地が点在し塚じょうの盛土がいくつも見られる。
明清寺の南側は住宅密集地で地勢の把握は難しい。
向反橋から西の道が南辺と思われるがよく分からない。
但し、西辺は比田井堰、北には堀跡がしっかり残り、東は鹿曲川が天然の堀と堀割がしっかりと確認できる。
明清寺。無住のようで謂れも不明。
明清寺北東一帯の段丘上は畑地になっている。
段などは無いが、土塁のところで堰が折れているので、明清寺境内とは別の郭だったかもしれない。西側、明清寺裏から見た土塁。裾を比田井堰が巡っている。
向反橋から来た道、明清寺裏付近の比田井堰。
比田井堰を北側に行くと周囲より低い田もあり、なるほど堀であったと思わせる。
繁福寺跡とあるところ。謂れは不明。
この北側に堀跡が残り、ここが城域の最北端と思われる。
北側から見ると、繁福寺跡側が少し高いのもわかる。
さらに北にも比田井堰に沿って堀状の地形が段丘上に続いており、道も折れがあることから、もう少し先まで城域であった可能性もありそうである。
段丘上北側。
蛇足かもしれないが段丘上北側は墓地が多い。その中に塚城の盛土が幾つかみられた。調べてないのでわからないが古墳群かなにかか。
段丘上から見た春日城。
鹿曲川東岸から見た、鹿曲川と向反の館。
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