光徳寺は、文明年間(1469~1487)に芦田城二代城主芦田右衛門太郎光玄が父の芦田備前守光徳の追福のために建立したものといい、当時は、東の龍田地籍に建立されていたが正徳年間 (1711~ 1715 )に芦田川の水害を避けるため現在の西側山腹に再建されたと地元に伝承されている。
光徳寺は、文明年間(1469~1487)芦田城二代城主芦田右衛門太郎「光玄」が父の芦田備前守「光徳」(芦田城初代城主)の追福のために建立したもので寺号も父の法号とした。曹洞宗で開山は「鷹林」である。天正十八年(1590)「光玄」の嫡流松平(芦田)右衛門太夫「家貞」が上州藤岡に移封される七世「猶国」もまた伴って越前木元にも光徳寺を建立した。
松平(芦田)氏がこの佐久地方を去るとこの地方は仙石秀久(小諸)の領地に属し多くの社寺が没収され光徳寺もその一部を残すだけとなったが慶長末期「猶国」は、君主「家貞」に従い故山に帰り光徳寺を再興し、寺田を設けた。
光徳寺は、芦田氏研究の中枢的存在としてその歴史的価値が高く評価されその寺宝は文化財の課題となっている。
立科町教育委員会
立科町文化財保護委員会
それによると、天正十八年 (1590)に小諸城主松平 (芦田)康真の上野国藤岡に移封され、龍田山光徳寺を開基して菩提寺としたが、芦田龍田の光徳寺の本堂と庫裏を解体して藤岡に移したものという伝承が実証されるものとしている。
藤岡市には芦田城( 藤岡城)、光徳寺、諏訪神社、町名に芦田町、岩村田町 (現宮本町)が今も残っているという。
その後の正徳6年(1716) 、芦田川の水災を避けて、いまの地 (字光明寺)に移り龍田山光徳寺と称した。(「信濃宝鑑」)、また「正徳中水災を避けて、今の地に移 し」( 「長野県町村誌」)という流れになるそうである。
裏山には芦田氏の墓所があるが、上記の流れのどの時点でのものかはわからない。
字光明寺というのも、光徳寺以前の寺院の存在をにおわせるものであるが、それについて触れているものには出会っていない。
石門脇の石塔類。
山門、不開門。
江戸末期頃の建立と言われ、諏訪の宮大工、立川流の唐破風門造りで見事な彫刻が施されている。
不開門裏側。境内北側。
境内南側。
本堂と六地蔵。
石板の文字は苔で読みにくいが、龍田地籍の旧光徳寺跡で見つかった五輪塔を運んで組み立てたものであるようである。
旧光徳寺跡(龍田遺跡)については後述する。
光徳寺から見た古町集落と芦田城 |
裏山頂上付近一帯には歴代住職の墓所や芦田氏墓所、芦田氏の石祠とされるものがある。
しっかり確認はしていないが、光徳の法号「光徳寺殿海雲良儀大居士」とあると思われる。また側面には「俗名蘆田備前守源号光徳公」とあり、一方には年号があり写真に収めたが判読できなかった。少なくとも当時のものではなく、ずっと後の時代に子孫の方によって建立されたものであろう。
外から持ち運ばれたものか、この付近に散在していたものを集めたものか、幾つかの別々の石塔のパーツからなるものと思われ作りがちぐはぐである。
年代や謂れはわからないが芦田氏に関わるものであろうか。
芦田氏の石祠というので、やはり子孫の方によって建立されたものと思われる。刻銘もあったが確認していない。
冒頭にも書いたが、光徳寺と裏山一帯は光明寺という字地で寺院の存在を想像させるものであるが、東側眼前の龍田地籍の光徳寺に関係するものであったのか、それ以前の寺院が在ったものなのかは不明である。
光明寺廃寺とどこかで見た気もするが失念した。
立科町宇山に曹洞宗の光明寺があるが関連は不明。
永享八年(1436)七月に芦田下野守が守護小笠原政透に降っているが、その後に依田庄から芦田に進出して芦田氏を名乗った依田光徳とは別の滋野系芦田氏ともいわれている。光明寺という地名は滋野系芦田氏時代のものとも思われるが推測にすぎない。
廃寺というと謂れは不明だが古町の北の方に長宝寺廃寺もあり、室町時代の遺跡に位置付けられている。永享八年(1436)七月に芦田下野守が守護小笠原政透に降っているが、その後に依田庄から芦田に進出して芦田氏を名乗った依田光徳とは別の滋野系芦田氏ともいわれている。光明寺という地名は滋野系芦田氏時代のものとも思われるが推測にすぎない。
因みに滋野系芦田氏に関わるとされている寺に山辺の津金寺があり、承久二年(1220)と嘉禄三年(1227)の3基の滋野氏宝塔がある。
芦田下野守と滋野系芦田氏、依田系芦田氏の関係を一言で片付けるのは危険だが、光徳が依田系芦田氏初代というのであれば、歴史のある土地だけにそれ以前の領主の寺などがあってもよい。
光明寺遺跡に関わるものかわからないが、北の山の三叉路のそば、写真は無いが、上原氏墓地の北側に鉄柵に囲まれたところがあるが何の謂れによるものか。
光徳寺旧跡。
「龍田遺跡発掘調査団 1994 『立科町文化財調査報告書3:龍田遺跡』立科町教育委員会」」より拝借した再現図。また、この本堂である建物址の南東側に、カマド址とおもわれる焼土のやけこみが見つかり、周囲の床面の状態から庫裡の存在が想定されている。
ほかに、建物の東西両側には石垣があったが、開田の折に除去されたといい、平成2年秋の試掘調査の折に、建物跡から10m南西側に寄ったところで多量の五輪塔の各部位が出土したという。(この五輪塔は現光徳寺の本堂裏の斜面に移されている。)
光徳寺建立は、応仁2年 (1468)10月10日、芦田備前守光徳が没したため、その子右衛門太夫光玄が文明2年 (1470)、父供養のために建てた。とするものと、宝徳3年 (1451)に建てられた。(「北佐久郡志」)とする開山に関する説が2通りある。これらについては、父光徳が生きていた宝徳3年に父の供養のためにと寺を建てることはないだろう。という説がある反面、生存中に菩提寺を建てることは一般的である。 との説もある。
同調査報告書では文明2年 (1470)父の三回忌にあたり、芦田城下の龍田に創建したものと考えられるとしている。
光徳の法名は光徳寺殿海雲良儀大居士。
その後、天正18年 (1590)に、信蕃の二男松平右衛門太夫康真は藤岡に移封されるが、その折に菩提寺である光徳寺も解体して藤岡に運んで建てたといわれている。運んだのは本堂と庫裡であり、この本堂の柱は移転当時のままの唐松材で黒光りしている。上州では杉・檜が一般的に用いられているが、寒冷地で育った天唐はほとんど使用されていないので、 こうした点からも解体して運んだことが立証されている。(同調査報告書より)
また移転したという本堂の建物の大きさが、発掘調査した建物址と一致することを指摘されている。
伝承では、声田川の氾濫によって水災にあい、正徳6年 (1716)現在地に移したという説が地元では一般的通説となっている。
しかし発掘調査によると、水害をうけている跡はみられず、木炭粒や焼土が顕著にみられ、遺物の出土状態からも水害をうけたとは考えられないとし、火災であったならばもっと多量の炭化材と焼土が残っていただろうとしている。
出土遺物、遺構の状態、文献史料、伝承などを総合して、本発掘調査で検出した光徳寺の成りたちを想定すると、中世から江戸時代 (16世紀~18世紀)までの遺物が出土していることから、芦田右衛門太夫光玄が文明2年 (1470)に父光徳供養のために建立した光徳寺の跡であることは問題ない。
さらに、藤岡へ解体して移転した後、慶長 (1596~ 1614)の末年、七世猶国和尚が越前からきて南岳山光徳寺を旧址に再興して寺田を設けた。( 「北佐久郡志」)と伝えられているが、これについても江戸時代の遺物が出土していることから、中世と同一地点に光徳寺を再興していると考えられる。
その後の正徳6年(1716) 、芦田川の水災を避けて、いまの地 (字光明寺)に移り龍田山光徳寺と称した。(「信濃宝鑑」)、また「正徳中水災を避けて、今の地に移 し」( 「長野県町村誌」)たわけだが、 同調査報告書では以下の問題点をのこしている。
「…ここで問題となるのは、正徳6年 (1716)に、「芦田川の氾濫にあって、水災を蒙り現今の地に移し」(「北佐久郡誌」)とあるが、なぜ五輪塔を移転しなかったか?という疑間は残る。建物址内に転がっていた、火輪、 水輪、地輪などと共に、少し離れた地点にバラバラに解体して転がっていた多量の空・ 風輪 と水輪は、室町時代の様式であることから初源の五輪塔であろう。 これらについては今後の課題としたい。」
芦田川の水災が、あったにしても、なかったにしても、芦田光玄が文明2年 (1470)に父光徳供養のために建立した光徳寺の初源の五輪塔が粗末に扱われるのは不思議である。
このあたりに芦田氏の系譜の謎が隠されているのかもしれない。
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